東京修猷会・会報 第8号 1996年(平成8年)1月1日発行
大変貌した修猷館周辺(左側の道路が元の電車道)写真提供:福岡市
目次 (中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます)
大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭言 | 破地獄の偈 | 有吉新吾 東京修猷会会長 | S4 |
館友だより | 返還後の香港について | 村瀬哲司 | S38 |
アトランタ事情 | 宮本雄二 | S40 | |
母校便り | 修猷の先人に続け | 船津正明 館長 | S32 |
’95二木会から(講演抜粋) | まとめ | 棚町精子(抜粋文責) | S40 |
2月:「曖昧」について | 講師:広中平祐 | --- | |
3月:廃墟の中から見える霞ヶ関 | 講師:土肥隆一 | S33 | |
10月:曲がり角の日中関係 | 講師:小島朋之 | S37 | |
東京から/福岡から | 同窓会短信、二木会短信 | 東京修猷会事務局 | --- |
若い広場 | 障害福祉の現場から | 樋田千恵子 | H2 |
学年便り | 践修会卒業50周年記念総会 | 野上三男 | S20(4) |
’95総会報告 | ”修猷”の文化を | 白井信雄 | S44 |
新旧幹事長あいさつ | 新幹事長挨拶 | 田代信吾 | S35 |
東京修猷会幹事長を終えて | 長野倬士 | S29 | |
事務局便り | 新執行部 | 東京修猷会事務局 | --- |
事務局便り | 同上 | --- | |
編集後記 | 会報事務局 | --- | |
案内 | 平成8年度東京修猷会総会案内 | 担当学年幹事 | S45 |
東京修猷会会長 有吉新吾
皆さん、明けましておめでとうございます。昨年は阪神の大震災やオウム教の凶悪犯行、景気の低迷など災厄の年でありましたが、今年は災害事故もなく、経済も立直り、国際貢献も出来て、日本国民の品格が一段と良くなる年にしたいものと願っております。
さて、年明け早々に地獄のはなしとはどういうことかと思はれる向もあるかと思いますが、これから申上げますはなしは題名も示します通り、地獄を破ってこの世に生還する、というはなしでありますから、どちらかというとめでたいはなしであります。
もう数年前のことですが、ある集まりで日頃尊敬しております実業界の某先輩から『破地獄の偈』という大変興味あるはなしを聞きました。この先輩は絵画の道にかけては玄人はだしの大家で、かつて東大寺に篭もってその廬舎那仏を画かれたことがありますが、それがこのはなしに深くかかわっておるのです。
はなしはその先輩が先年大病をされ、高熱のため意識朦朧として生死の境をさまよっておられた時、かつて画かれた廬舎那仏が忽然として枕頭に現出され、それから急に病勢はおとろえはじめ、めきめきと恢復に向かわれたそうであります。このことを後日親しくしておられる東大寺の管長に話されたところ、管長は、これは驚きました、それこそ「破地獄」ですね、と言って
心如工畫師(心は工(たく)みなる畫師の如く)
畫種々五陰(種々の五陰を畫き)
一切世界中(一切世界の中に)
無法而不造(法として造らざるなし)
にはじまる『百字心経』のはなしをされたそうです。
このはなしが妙に私の頭に残って、それからいろいろ調べてみますと、『百字心経』とは華厳経の夜摩天宮菩薩説偈品に出てくる百字から成る『唯心偈』のことであり華厳宗大本山東大寺では、大仏殿の『昭和大修理』のために『百字心経』の納経を受けておられるということを知り、人を介して納経用百字心経を入手してその解脱を読んでみますと、所謂『破地獄の偈』と称するのは、その末尾の四句、即ち、
若人欲了知(もし人求めて三世一切仏を)
三世一切仏(知らんと欲せば)
應当如是観(應当(まさ)に是の如く観ずべし)
心造諸如来(心は諸(もろもろ)の如来を造ると)
のことだということが分かったのであります。
ところでここまではいいのですが、何故これを『破地獄の偈』というのか、これが中々分からないまま永い間気にかかっておりました。不思議なもので、しょっちゅう心にかけておりますと小さな記事でもヒョイと目に飛び込んでくるもので、最近ある雑誌にこの『偈』の話が出ておりまして、『破地獄』のいわれは『今昔物語』巻六に詳しいとあります。早速今昔物語を繙き、左の通りの讃仏説話を見付け出しました時は、全くやれやれという思いをいたしました。
震旦王氏、誦華厳経偈
得活語 第三十三
今ハ昔、震旦ノ京師ニ人有リケリ。姓ハ王ノ氏、戒行ヲ持セズシテ善ヲ修セズ。文明元年ト云フ年、王氏、身ニ病ヲ受ケテ忽ニ死ス。而ルニ左右ノ脇暖カ也。三日ヲ経テ甦リヌ。身ヲ大地ニ投ゲテ泣キ悲ムデ冥途ノ事ヲ語リテ云ク、「我死セシ時、二人ノ冥官来リテ我ヲ追テ地獄ノ門ニ至ル。其時ニ一人ノ沙門来リテ我ニ告ゲ云ワク、我ハコレ地蔵菩薩也。汝京師ニ有リシ時、我形像一躰ヲ模シタリキ。而ルヲ未ダ供養セズシテ投ゲ棄テキ。然リト雖我像ヲ模セル恩ヲ報ヒムト思フ、ト宣ヒテ一行ノ偈ヲ王氏ニ教エテ誦セシム。其文ニ云ハク。若人欲了知 三世一切仏 應答如是観 心造諸如来 云々。 沙門此偈ヲ教エ終リテ宣ハク、此ノ偈ヲ誦ズレバ地獄ノ門ヲ閉ヂテ浄土ノ門ヲ開ク也、ト。王氏既ニ此ノ偈ヲ受ケ得テ遂ニ城ニ入リヌ。閻魔王在シテ問ヒテ宣ハク、此人如何ナル功徳カ有ル、ト。王氏答エテ曰ク、我愚癡ナル故ニ善ヲ修セズ、戒ヲ持セズ、但一四句ノ偈ヲ受持セリ、ト。王宣ハク、汝今誦シテムヤ否ヤ、ト。王氏習フ所ノ偈ヲ誦ス。其時ニ音ノ及ブ所ノ罪人、皆遁ルル事ヲ得ツ。王モ亦此偈ヲ誦スルヲ聞キ給ヒテ、恭敬シテ、『速ヤカニ人間ニ還リヌ、』ト宣フ。『此故ニ我甦也』ト云フ。其ノ後諸ノ僧ニ向ヒテ此ノ事ヲ語ル。然レバ華厳経ノ功徳無量也。一四句ノ偈ヲ誦セル猶此ノ如シ、如何ニ況ンヤ解説シ書写供養セラム人ノ功徳ヲ思ヒ遣ルベシトナム語リ伝エタルトヤ。
さて話は以上の通りで、『破地獄』の由来は分かったのでありますが、『唯心偈』は心が凡ての基本であり萬物の実体である、と説いている華厳宗のエキスともいうべき大変むつかしい唯心のお経ですけれども、閻魔大王がこれを聞いて、『参りました』とどうして平伏恭順するのか、どうもそこが分かりません。もとよりこれは広大無辺の仏の功徳に降参した、と常識的に解釈していいのでしょうが、どうもそれだけでは納得がいかないものが残るのです。そこで華厳経に関する本をあれこれ拾い読みしてみますと、華厳宗本尊の廬舎那仏は西アジアの太陽信仰のシンボルで、釈尊の不滅の本体を『太陽』になぞらえたのだ、という説があり、またそれにつながるのでしょうが、華厳経はその教理から死後の世界とか地獄の存在など一切問題にしないという説もあることを発見し、さてこそ『華厳偈』が『破地獄』につながるのか、と想像を逞しうしているのが現状です。しかしこれも私の身勝手な推測でしょう。大方のご教示をいただければ幸いです。
館友だより
返還後の香港について
東京銀行福岡支店長 村瀬哲司(昭38卒)
香港政庁でパッテン総督に次ぐナンバー2のアンソン・チャン行政長官は、六十名あまりの要人を率いて、平成七年九月二十九日福岡で大規模な香港プロモーション・セミナーを開催した。
中間決算の期末でもあり、集客が心配されたが、いざ当日になると予備椅子が足りないほどの盛況で、香港の将来に対する福岡政財界の関心の高さを窺わせた。その晩アクロスで催されたHonKong-Japanポップコンサートは、アグネス・チャンの司会で谷村新司、ローマン・タムなど両国のトップ歌手が出演、衛星中継されたが、これ又入場券が手に入らないという人気であった。
一九九七年七月一日一世紀半に及ぶイギリスの香港統治に終止符が打たれ、主権が中国に返される、その日以降香港の生活は、政治・経済はどう変わるのだろうか。
簡単な質問を二つ出してみよう。
(一)香港と中国広東省との国境は開かれますか。
(二)現在流通している香港ドルは、中国の人民元にとって代えられますか。
この二つの質問に対する答えは、いずれも「不是」(ブシュー)である。現在国境は鉄条網で仕切られ両国の軍隊により厳重に監視されている。香港の人は比較的た易く中国に出られるが、逆に中国の人が香港に出られるのは極めて例外的である。広東省の沿岸部のシンセン経済特区に住む人々にとって、お隣香港は憧れの地であり、返還後もしかすると往来が自由になるのではないかと期待を抱く向きもあるようだが、期待は裏切られそうである。もし「国境」が開かれることになれば、香港の十分の一以下に過ぎない所得水準の億単位の中国人民に人口六〇〇万の都市は一夜にして飲み込まれてしまうだろう。香港との境は閉ざされたままである。
香港ドル(邦貨換算約十二円)は、民間の商業銀行であるホンコン・バンクなど三行によって発行される紙幣で、中央銀行券ではない。しかし香港ドル紙幣発行に際しては一〇〇%米ドルの準備積立が義務づけられていることから、ハードカレンシーとしての信認が高い。実際発行残高の約四分の一は中国南部に持ち込まれ人民元と平行して流通している。九七年七月以降も香港ドルは引き続き法定通貨とされ、その旨香港の将来の憲法とされる香港特別行政区基本法(第百十一条)は明記している。
従来英系の二行が香港ドルを発行してきたが、九四年五月から中国銀行香港分行が発券の仲間入りをした。
このことは中国政府自身が香港ドルの堅持を態度で示したものと受け取られている。香港が独自の通貨を持ち続けることは、中国本土とは全く独立した経済単位であることを意味し、香港経済の将来にとって極めて重要である。
返還後の香港の政治、経済の枠組みを造るのが、一九八四年調印の中英共同宣言と一九九〇年中国全国人民代表大会で採択された前掲の基本法である。これらの条約と法律は、政治的には「港人治港」の原則を掲げ、植民地香港は香港人が高度な自治権を有する特別行政区に変更される。経済的には「一国両制度」の原則により、現行の資本主義体制と生活様式は返還後少なくとも五十年間は保障されることになっている。即ち香港は晴れて中国の許に戻りはするが、現在の経済的繁栄を維持し、さらに発展させるため、社会主義中国における資本主義の「出島」として位置づけられると考えてよいだろう。(日本香港協会福岡支部理事)
アトランタ総領事 宮本雄二(昭40卒)
昨年十月、日本経済界とアメリカ南東部七州との間の会談が東京で開催された。七州とは、北からヴァージニア、ノース・カロライナ、サウス・カロライナ、テネシー、ジョージア、アラバマ、フロリダの各州で、テネシーとフロリダ以外は私の管轄である。すべて南北戦争では南部に属し、南部連合に参加している。
この日米南東部会は、毎年一回、日本とアメリカで交互に開かれ、今年で第二十回を数える。日米の経済摩擦も自動車問題でピークに達し、日本たたき(バッシング)から日本素通り論(パッシング)まで、心配すればきりがないが、ここ南東部はそのような心配とはほとんど無縁である。南東部に住む日本人も不愉快な経験はほとんどなく快適に生活している。アメリカ側の日本に対する関心の高さは衰えるどころか、ますます強まっており、今回の会議にも五州の知事が出席した。日米間の類似の会議では断トツの高い出席率である。
アメリカ南東部は今や全米の先頭を切って経済発展を続けており、遅れた農業地帯というイメージは急速に色あせている。これを可能とした原動力の一つが八十年代に本格化した日本の製造業を中心とする投資であり企業進出だった。北部の工業力に対抗できるものを日本がもたらしてくれたということになる。就業機会が創出され、地域の収入も向上した。この十年で進出日本企業の数は二百三十九から八百五十八に増え、投資も二十億ドルから百七十四億ドルに急増している。その結果、日本企業の雇用者数も一万七千人から十二万三千人へ、また在留日本人も九千人から二万一千人へと増えている。
経済の相互補完性と経済関係の深まりは最近どこでも見られる風景だが、南東部が少々異なるのは歴史と文化が深くかかわってくるからである。南北戦争はアメリカが戦った最大の戦争であり、六十二万人の米人戦死者は第二次世界大戦を含めいかなる戦争の規模をも上回る。特に南部では銃をとって戦える成年男子の四分の一が死亡している。北軍の占領を経て南部の経済は低迷を続け、文化的にも北部の後塵を拝し続けた。おかげでその後うねりのごとく押し寄せる、異なる宗教と文化を持った新たな移民の波はすべて南部を素通りし、南部はコミュニティとしての一体性を持ち続けることができた。イギリスの田舎が残ったといってもいい。そのアメリカの「田舎者」と世界の「田舎者」の日本とが出会ったということであろう。お互い気にいったのである。
その南東部が、北へのコンプレックスを清算し、世界にむけてデヴューするのが、今年のアトランタ・オリンピックである。ある南部の人が「日本にとっての東京オリンピックと同じですよ」といった。そう聞くとどうしても成功してもらわなければ困る。そういう気持ちを込めてジョージアの日本人社会はアトランタに建設される近代オリンピック百周年記念公園建設のために、公園に敷設されるレンガを十万個買う運動を始めた。日本でも売り出したので、お目に留まれば私共の心情を察してぜひご購入いただければ幸甚である。ちなみに福岡市は三年前にアトランタ市と「友好都市関係」を締結している。
母校便り
修猷の先人に続け 館長 船津正明(昭32年卒)
平成七年度は、修猷館にとって記念すべき年となりました。平成七年五月三十日の創立記念日に創立二百十周年の記念式典を盛大に挙行しました。数々の記念行事を行いましたが、その中でも、作家城山三郎氏の記念講演は、修猷館出身である故廣田弘毅首相に関する内容であり感銘を受けました。さらに、記念行事として、「修猷の先人に続け」の言葉のもとに、二つの研修旅行を実施しました。
その一つは、二年生四百四十名によるつくば、東京研修旅行であり、いま一つは、世界を見つめる海外(アメリカ)研修旅行でした。
つくば、東京の研修旅行は、研究施設四十について、八月三日からの三泊四日で実施しました。二十一世紀の日本について予見できた生徒にとっては、本当に有意義なものであったと思います。御協力と御支援を賜りました東京修猷会の方々に厚く御礼申し上げます。
海外研修旅行は、生徒十五名で、八月二十一日からの九日間、アメリカのニューヨーク、ワシントンDCで実施しました。ニューヨーク四泊、ワシントン三泊の研修旅行でしたが、これまた、大きな成果を上げて帰国しました。
ニューヨークでは、「ニューヨーク修猷館同窓会」十五名の方から大歓待を受け、一緒に館歌を歌いました。メトロポリタン博物館、国連本部、自由の女神等を訪ねた後、昭和二十五年卒の三井信雄氏が副社長をされているアメリカIBMの「基礎研究所」をニューヨーク郊外に訪ね、多くの説明を聞きました。「世界の舞台で、堂々と臆することなく自己主張をせよ。」と話されたことは、修猷生に世界そのものを認識、実践する場となりました。その他、ニューヨーク証券取引所、連邦銀行、夜は、ブロードウェイのミュージカル鑑賞組と大リーグ観戦組とに分かれて楽しい一時を過ごしました。
ワシントンでは、白亜のホワイトハウス、議事堂、アーリントン墓地などを訪ね、ミート・ザ・プレスと称して船橋洋一朝日新聞アメリカ総局長に会い、世界の情勢を聞きました。
さらに、日本大使館に勤務する昭和四十七年卒の谷川浩道氏、昭和五十二年卒の大久保武氏から、「現代のアメリカ観」等の講義を受け、大いに学ぶところがありました。施設では、スミソニアン航空博物館に展示されている原爆投下機「エノラゲイ」を見ることができました。短い日数とはいえ、アメリカ合衆国の中枢都市を研修できた意義は大きいと思います。
戦後五十年、今こそ日本は二十一世紀の日本の行くべき方向を定めなければならないと思います。若い意気に燃えた修猷生十五名は、今後、この研修旅行で得た成果を糧として大きく飛躍してくれるものと思っています。
◆「曖昧について」◆
二月
広中 平祐 数理科学振興会理事長−全国から高校生五十人、論文で選んで、海外からノーベル賞受賞者や著名な方々を招いて一週間寝食を共にし勉強しあうセミナーを開いておられます。−
数学をやっていると「厳密」ということが非常に重要ですが、その対極にある「曖昧」ということに非常に感心があるわけです。 ファジー、カオス等昔あまり考えなかったようなことを考え出したコンピューターの発展と関わりがあります。コンピューターというのは、実は曖昧なのです。 どんな完璧な機械でも少しは誤差が出るわけで、出ても間違いのないよういろんな安全弁がついているわけです。
日本の地図を厳密に描きたいという場合、海岸線をずっと歩いていって描いていったら、描き終わった頃にはどこかへずれてくることもありうる、見るということは細部を無視してこそはっきり見える−アナログの特徴なのです。 数学者の仕事の中へも、コンピューター・グラフィックス
(CG)でどんどん描いて絵を見せるということが入ってきますと、数学者の考え方が軟らかくなってくる、つまり曖昧という要素がいろんな形で入ってきます。 が、何と言っても数学者の職業というのは、曖昧と戦うことなのです。学者にとって大切なことは曖昧と関係していますが、創造するということ、すなわち論文を書くことです。 偉大な業績を残した人々が、曖昧な中からどんな風にして創造したか考えてみますと、モーツアルトは眠れない時いい曲ができ、ブラームスは泣きながら唸りながら作曲していたということで、まちまちです。 が、創造性というのは必ずしも、あらかじめ設計していて目標を決めて邁進してそれに到達したという、そういう形でない場合がほとんどのようです。
小中学校でもっと創造性をそだてるようにと、よく言われますが、クリエイティビティを育てるって一体どうしていいのかわからないのが現状です。 曖昧な無意識な何かが頭の中でおきているというわけです。 数学者の間では、頭のいいやつをクリア・シンカーと言いますが、クリア・シンカーだけが創造的というわけではないのです。 インプットがあれば、無の状態の時、創造性の扉がフト開く、全体の雰囲気をよくして、出てくる流れ星を待つ、という訳です。 数学者ポアン・カレーは、創造的なことはきのこに似ていると言っています。 菌根という根がずっと円形に地下に広がっていき、相当力がついた時に、季節の変わり目で昼夜の温度差が急に大きくなるとか、木の根にぶつかるなどの刺激を受けた時、きのこを作って胞子をばらまくということです。
日本にはこれから相当創造的な人が出てくると思います。 学者として創造的であるには、子供の頃から豊かな経験を一度はしていること、それだけでなく逆境
(貧乏)も経験していることが必要といわれています。 日本はこの第一条件は満たされた、そして島に閉じこもっているかぎり外圧や自然災害などのショックも時々あるだろう、その逆境を経験して、これからの日本にはクリエイティブな人が出てくるだろうと楽観的でいます。◆「廃墟の中から見る霞が関」◆
三月
土肥 隆一 (昭和33年卒) 牧師・衆議院議員一月十七日午前五時四十六分に起こった大震災の被災地・神戸は私の選挙区で、自宅は神戸の北区ですが、私自身はその時東京にいたものですから、地震を体験していません。 朝7時のニュースで地震を知り、すぐ飛行機で関西空港までは飛びましたが、足止めされホテルに一泊。 携帯電話は通じないし、電気、ガス、上下水道、電話等、線で繋がっているものは全部だめでしたね。 翌日は朝早くから歩きはじめたところ、レンタカーを借りられました。 八時に借りて実に七時間かかって神戸に着きました。 尼崎から先がひどい状態で、呆然としてしまいました。
現行建築基準法の建物が全部つぶれていました。 まず強い縦揺れ、そして東西南北に揺れたそうですね。 震災から五十日を越えて、被災者も被災しなかった人も、この震災に関わってきている人達は大なり小なり、心身症が現れてきていて、私もそういう状態ですし、誰もそうなるということを今痛切に感じています。
この震災に関わる法律は、災害対策基本法、災害救助法、激震災害に対する法律、大規模地震対策特別措置法等があります。 正直な話、地震の後で読みました。 政治家の危機管理は全くできていなかったのです。 企業家もその社員のために危機管理が必要です。
復旧にかかる一兆二百二十億円の補正予算を組んだのですが、財源は、何も考えていない、これから考えるわけです。 消費税、増税とかが問題になってくると思います。 試算としては十兆円かけないと、到底復旧できないのですが、残りの九兆円を出してくれるかが最大の問題です。 最初三十万人いた避難者が現在九万人。 少しずつ「出なければいけない」という気分になれるような方向で、お世話をしなければいけない。 あまり快適にすると生活力が落ちていくので、それが一番怖いです。 食事は一日八百五十円から千二百円になりました。
心配なのは被災地の市民が、この震災で何を経験し何を考え今後何を目的に、あるいは何を土台として生きていくか、ということです。 震災をきっかけに長年の友達と絶交せざるをえなかったり、被災した親を引き取って、深刻な家庭問題が起こったり、いろいろあります。 震災の復旧、復興に至る間で日本人が見えてくると思われます。 一体日本人はどんな態度をとるのか。 どういうプロセスを経て復旧へ至るのか、あるいは挫折するのか。 ロスのノースリッジの地震と神戸の地震を比較して、国際的なメンタルケアのカウンセリング・クリニックを開きたいと思っています。 アメリカの方も協力するといっています。 とりあえず、皆うつ症状になっていますから、うつの症状から解放してあげるような相談事業を始めたいと思っております。
◆曲がり角の日中関係◆
十月
小島朋之 (昭和37年卒) 慶応義塾大学教授一九七二年九月田中首相が訪中して国交が正常化して以来二十数年、日中関係は全般的に順調でしたが、このところ厳しくなって、曲がり角に来ていると言えます。 中国の核実験に対する日本の反応が今までと違ってきて、五月に無償資金供与を一部削減措置をとり、八月には無償資金協力の凍結をしました。 一九八九年の天安門事件の時に日本がとった経済制裁措置は日本が主体的にとった措置ではなかったのに比べ、今回は日本だけが制裁措置をとり、国内の反核世論を受けて思いきった措置となっています。 慎重熟慮をへた決断とは思えません。 今後また核実験をした時は、円借款に手をつけざるを得なくなりますが、それでも中国がやめない時、このままの関係で行けると考えるのは甘すぎると思います。
日中関係は米中関係に大きく影響を受ける従属変数であるといえます。 そして今、米中関係も非常に危ない。 五月に台湾の李登輝首相への入国許可によって悪化して以来、修復のプロセスにあることはあります。 経済、安全保障、地域の安定的秩序の観点からお互いに必要としている等の要素があるからです。 しかし悪化の可能性も依然として残されていると考えます。
米国は中国に対する位置付け、政府の対中認識、対中政策があいまいで、友好国とも同盟国とも敵とも考えていません。 中国の動向次第では敵国扱いに向かっていかざるを得ないところがあり、根の深い相互不信感があります。 米国の対中政策の「エンゲージメント」が、今は、「関与」ですが、いつでもエンサークルメント「封じ込め戦略」に変わる可能性はあります。
中国には、李登輝首相への個人批判が厳しいこと、台湾に近いところで軍事的脅迫行為・ミサイル発射実験をしていること、日本の核実験反対と制裁に強い反発があること、対日批判の厳しい抗日戦争勝利五十周年キャンペーン、三千万人の大量失業など深刻な経済情勢などさまざまな問題要因があります。
米国にとって民主、人権の問題は国家の存在理由ともいえるもので、絶対条件であり、来年の米大統領選挙では中国問題が必ず出てきますが、その時、民主、人権の問題が扱いが難しいと思われます。 対中警戒感は政府・議会の両方で持っています。
中国の言い分・・日本は唯一の被爆国だが
(ジュネーブの国連の軍縮大使も言うように)日本が戦争をしかけたんだから自業自得だ。 また中国が戦争中に受けた被害額に比べると円借款はほんの少額なのだから、凍結などとんでもない。国家と国家の関係というのは依然として「感情」です。 どう持ち駒を使うか、政治家と日本政府に課せられた課題ですが、最近の動きを見ていると暗たんたる気持ちになります。
柔道部・剣道部の創部百周年の記念式典が十月二十九日
(日)に母校で行なわれました。 柔道はバルセロナで活躍した古賀稔彦さん(お兄さんが修猷の先生なので)などを招待し、模範試合や生徒達の五人がけ十人がけが行なわれ、午後は剣道部・柔道部一緒に菁莪堂で物故者の慰霊式と懇親会と続き、卒業生、現役、物故者の家族と大勢の参加がありました。東京では毎春、柔道部同窓会が、新卒者を迎えて歓迎会を行なっています。
修猷茶道部講師の米寿を祝う
昭和二十四年から四十八年まで修猷館茶道部でお茶を教えられた河面昌子先生の米寿記念茶会が十一月十二日
(土)、福岡の大濠公園内の日本庭園にて、約五十名の卒業生により催されました。合唱部同窓会の活動
修猷の合唱部は
(クラブとしては)昭和三十年代後半に成立したのだそうですが、当時の心熱き先輩方は東京に進学後も在京者の同窓会を春に恒例化して五月病の後輩をケア−してくださったのです。 今もずっと五月の第2土曜日の合唱部同窓会は続いており、二百周年の合唱からはその参加者にも声をかけて益々盛り上がりをみせています。二木会忘年会
二木会の一年の締めくくりとして、昨年十二月十四日
(木)「如水会館」にて有吉会長初め多数の出席をいただき、なごやかなひとときを皆で過ごしました。毎年十二月の二木会は忘年会ですから、もう今から今年の十二月のスケジュール表に書き込んでおいてください。
「知的障害者」この言葉が連想させるものはなんだろうか。 ノーマライゼーションという横文字が浸透してきた現在においても、彼らが地域で生活してゆくことはまだ困難であることには違いない。 「けして差別をするつもりはないのだけれど・・・・・・」と前置きはつくのだが、「精神薄弱者」という用語が消えようとしている今も、人々の意識はさほど変わっていないのが現実のようだ。 私は、東京都心身障害者福祉センターというところで、このような人々の様々なサポートをする職場で働いている。 いわゆる最近クローズアップされている福祉の仕事なのだが・・・・・・・
みなさんは、施設というとどういうところを想像されるだろうか? 私たちがもれなく身近なところといえば、老人ホーム。 これもひとつの施設である。 近頃では公立でもかなり処遇が改善されてはいるが、誰も好き好んで入りたいなどとは思わないだろう。当たり前のことだが、私たち一人一人にはそれぞれの個性があり、生きてきた様々な環境と歴史がある。 ひとつ屋根の下で起床から睡眠までの生活のほぼ全てに規則が加えられ統括される毎日を、生活が保障されているからといって喜べるだろうか?
知的障害者の入所施設には老人ホームどころではない拘束がある。 同じ大人なのに、外出するにも許可がいり、それが許されなかったりする。 電話もラジカセも自由には使えない。 年ごろなら当然のことなのに、異性に興味を示そうものなら必ず記録に書かれ、ましてや恋でもしようものならケース会議ものである。 日々の出来事の詳細をプライバシーに関係なく記録され、日常の暮らしの中では、散歩したら「歩行訓練」になり、「自立を目的に」服を着る。 そんな大人がいるだろうか? どう考えてみても変な話である。 そして、そのことを誰も変だとか嫌だとか言わないことがもっと変だ。
もちろん施設の全てがそうだと断言しているのではない。 中には普通に近い生活形態をされているところもある。 昔に比べれば建物は近代的になり、個室化するところも増えてきた。 だが、やはり施設は施設である。 誰だって住み慣れた環境で家族や友達と一緒に暮らす権利があるはずだ。 どうして彼らだけが「仕方がない」の一言で堀の中にいなければならないのか。
福祉といえば人権。 「人権を大切に」なんて誰でもが言うけれど、綺麗な言葉で飾るのは簡単だ。 この仕事についてまだ日は浅いが、他人事ではない現状が一見平和な生活のあちらこちらに点在しているようである。 少しだけ、「当たり前」ができなくなることで、当たり前の幸せまでもが失われて行く。 そんな現実はどこにでもある。 そのことを私たちは自らのこととして受けとめていかねばならないだろう。
一生を誰の助けも借りずに生きてゆける人はいないのだから。
践修会
(昭和二十年四卒)では、毎年十一月三日を総会開催日と定めて、福岡に集う。今年は終戦五十周年。 即ち我々の卒業五十周年という大きな節目に当たる。
卒業当時は人生二十年と思い定めていた仲間たちにとって、考えも及ばなかった卒業五十周年の記念総会。
この日全国から二日市大丸別荘に馳せ参じた会員六十名、夫人二名を加えた盛会となった。
総会に先立って、東京勢五名を含めた十四名が太宰府ゴルフクラブに集結、東西対抗のゴルフ戦で記念行事の口火を切った。
夕刻からの総会では、恒例の議事のほかに各クラスから一名ずつが立って、この日の感慨、今後の生き方についてこもごも心境を語り、満場しみじみと共感に満ちた。
大広間に移っての懇親会、卒業以来という顔ぶれも混じっての大酒宴となったが、宴なかばを見計らって全員のショートスピーチ。
長引けば司会者が笛でさばいて、何とか全員が無事終了。
最後に館歌・応援歌。 そして恒例となった「お手手つないで」を手をつなぎ輪になっての大合唱。 今回は「夕焼け小焼け」がおまけについて、名残惜しい終宴となった。
三十名余りは、そのまま泊り込みの二次会、三次会。 えんえん午前一時に及ぶグループもあった。
翌日は、有志によるバスハイク。 二十余名の参加。 まず太宰府天満宮の参拝と散策、まだ人影もまばらな「お石茶屋」で、梅が枝餅とお茶で一服。 高松隆之助君が古い民家の部材、建具を用いて作り上げたばかりの「有智山荘」でゴロ寝と歓談。 昼食後は一路福岡へ向かって、モーターボートで博多湾のクルージング。 シーサイドももちを経て天神での散会となった。
なお践修会では、太平洋戦争中の四年の学校生活の記録、「戦闘帽と青春」を平成元年に出版したが、五十周年の一環としてその続編「戦後五十年に憶う」
(仮題)の編集を進めており、明春の刊行をめざしている。今年は修猷館創立二百十周年、戦後五十年等節目の年でもあることから、従来とは少し趣を変え、総会に先立ち「修猷気質今昔」−青春時代の我々を育んでくれた“修猷”の文化(修猷館気質)とは何か、またその継承は−をテーマとしたパネルディスカッションを組み入れました。 パネリストには各年代の館友を代表して、有吉会長(昭和4年卒)、船津館長(昭和32年卒)、林幸次郎君(昭和50年卒、日本一のちんどん屋)、及び外部から黄順姫氏(筑波大講師、修猷館を教育社会学の視点から研究)を招き、司会には我らの同期の青木裕子君(NHKアナウンサー)にお願いし、思い出話などを交えて皆さんに修猷を大いに語っていただきました。
有吉会長からは修猷に沸々と流れる「修猷魂」を産んだ修猷館の歴史を語っていただき、修猷館の校訓は「修猷の歴史そのもの」と歴史と伝統による生徒教育を通じ二十一世紀の日本を担う人材の育成を熱く語る船津館長。 修猷館時代のブラスバンド部の体験を生かしチンドン屋業界の第一線で活躍中の林君が語る“自分にとっての修猷”。 そして修猷館の自由な校風をこよなく愛し「修猷の伝統は運動会を体験することで継承されるのでは」と問いかける美しき新鋭学者黄氏。 名司会青木君のもと、時には黄氏の巧みな博多弁に笑いも飛び出す会場は熱意にあふれ一時間あまりの討論が行われました。
館歌斉唱で始まった懇親会では、飛び入りで上京中の桑原福岡市長(昭和15年卒)から8月にユニバーシアード福岡大会を控えた郷里福岡の近況報告もありました。 乾杯の後、獅子の会苦心の作品−井上、井島両君が同窓会本部の佐々木さんのご協力も得て昭和2年から昨年までの卒業アルバム写真から作成したスライド−を上映し有吉会長他諸先輩に写真に纏わる当時の思い出話を語っていただきました。 さらにパネリストの一人林君の日本一のちんどん屋の芸が始まると拍手が沸き起こり会場は大いに盛り上がりました。 締め括りは恒例の“彼の群小”の大合唱、今年の総会も四百名弱の出席を得、無事終了致しました。
最後になりましたが、我々が修猷館を卒業して25年たったこの時に“修猷“を通してもう一度自分自身を見直す機会を与えていただいたことに深く感謝申し上げますと共に、ご指導ご支援を賜りました多くの方々にこの場を借りまして厚くお礼申し上げます。
六月十七日の総会に於て、有吉会長より新執行部が任命されました。 そのメンバーは下記の通りで、全員参加型で編成されています。
我々新執行部は当然のことですが、従来からの伝統ある東京修猷会の歴史に則って進めていく考えです。 年一回の総会、会報の発行、毎月の二木会を中心に各行事を会員の皆様に楽しんで頂ける、待たれるものとすることに努めていく所存です。 二十一世紀へ向かって、過去の伝統を生かしつつ、新しい息吹が感じられる東京修猷会とすべく、又会員の皆様の会となる様に心掛けて、事に当たっていきたいと考えます。 どうかその意味でも各行事への皆様の参加と、ご意見、提案をお待ちしております。
東京修猷会幹事長を終えて 長野倬士
二期四年の幹事長の任期を終えるに当たって、さしたる貢献を成し得なかったことを大変申し訳なく思っている。
私はその前の数年間は二木会も欠席がちになっていたが、その間、渕上前幹事長以下の執行部によって会報の発行が始められ、会員数は飛躍的に増大していた。 自分が幹事長になって痛感したことだが、渕上先輩が払われた努力と負担は大変なものだったと思う。
ただ私は同窓会の運営というものは、負担がかかりすぎるのは望ましくないように思う。 それで会報の広告掲載を取りやめ、ページを減らした。 また六千人に膨れ上がった会員数を千人ほど整理した。
在任中一番の思い出は、二木会の四百回記念講演で日本新党旗揚げ直前の細川さんに来てもらったことだ。 当時はまだ「前熊本県知事」に過ぎなかった氏に期待するところ大だったのか、学士会館の大部屋に溢れるほどの出席者があったことが思い出される。 功罪はともかく、何しろ一年後には総理になられる人を呼んだのだから鼻が高い。
ただ、私は、二木会の一番の価値は、このような講演よりも地味で難解な問題についての講演にあるように思う。 特に国際問題について論じた我が同窓の論客達は全員、そこらのテレビや新聞と違った極めて現実的で鋭い視点を持っていたのが強く記憶に残っている。
最後に私にとって心残りだったことは、財政の安定化を果たしえなかったことと総会出席者の減少傾向に歯止めがかけられなかったことだ。 この件については、ぜひ皆で田代君を助けて改善を図ってほしいものだと思っている。
幹事長 田代 信吾
(S35年卒)副幹事長 今村 宏明
(S35年〃) 二木会〃 伊藤 洋子
(S35年〃) 会計〃 大須賀頼彦
(S37年〃) 会計〃 田中 俊雄
(S40年〃) 名簿〃 棚町 精子
(S40年〃) 会報〃 高橋 章
(S41年〃) 名簿〃 黒宮 時代 (
S41年〃) 会報〃 広瀬 豊 (
S43年〃) 総会〃 伊佐 裕 (
S44年〃) 二木会〃 等 健次 (
S45年〃) 総会平成七年度の東京修猷会総会は、新しい試みのパネルディスカッションが好評で、華やかに幕を閉じましたが、その折り、幹事長の交代と新しい幹事が承認されました。 これを機に、今まで一部の人に片寄りがちだった会の運営を見直そうということで、役割の分担を明確にし、全員で協力し合う体制を取りました。
そして、組織運営の簡素化、明朗化を目指しての試行錯誤の末、東京修猷会事務業務の一部を株式会社フソウキャリアサービスに依託し、事務局もそこに置く運びとなったわけです。 すっきりしたところで、幹事一同、大切な会費をより有効に活用すべく努力する所存です。 よろしくお願い致します。
ここで一つお詫びがあります。
現在、年会費の支払い方法としては、郵便振替が主で、他に、総会、二木会での直接払い、修猷カード、そして銀行口座自動引き落としと様々ですが、このうち銀行口座自動引き落としを中止させて頂くことになりました。 この方法でお支払いの方々には真に申し訳ありませんが、引き落としにかかる費用が法外な上、手続きが複雑なため、中止やむなきに至りました。
該当の方には改めてお手紙を差し上げますが、まずは紙面を借りて深くお詫び申し上げます。 なお事務局へのご提言、ご要望、ご不満などありましたら、何なりとお寄せください。
郵便振替 番号 00170−6−172892 東京修猷会事務局 (神田郵便局)
編集後記不備な点も多々あると思いますが、ご協力下さいました皆様、ありがとうございました。
(黒宮・棚町)(
カット・矢島想月)