東京修猷会・会報 第7号 1995年(平成7年)3月1日発行
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大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭言 | 「ことば」と文化 | 有吉新吾 東京修猷会会長 | S4 |
福岡便り | 21世紀の魅力都市作り | 桑原敬一 福岡市長 | S15 |
母校便り | 修猷館の誇り | 船津正明 館長 | S32 |
’94二木会から | 講演抜粋のはじめに | 黒宮時代 | S41 |
「21世紀に向けた持続可能な都市交通」 | 講師:古池弘隆 | S34 | |
「ドラマに見る現代の男と女」 | 講師:音成正人 | S43 | |
「アメリカの銃社会」 | 講師:伊藤哲朗 | S42 | |
海外便り | 「いじめ」の心理と教育の本質 | ハロラン芙美子 | S37 |
学年便り | 卒業40周年「六八会」が記念総会 | 藤本義幸 | S29 |
’94総会報告 | ご協力に感謝! | 北島雄二郎 | S43 |
案内 | 1995ユニバーシアード福岡大会 | 大会組織委員会 | --- |
平成7年度東京修猷会総会案内 | 総会担当幹事 | S44 |
東京修猷会会長 有吉 新吾
「ことば」は民族文化の凝縮といっていいものですからそれぞれに民族の体臭らしいものをもっております。ですから他民族の文化を「ことば」を通じて移入しようとすると仲々むつかしい面があるようです。
わが国は昔から中国の文字を借用し、これを表意文字として使うと同時に表音文字としても活用し、後にはそこから日本固有の「仮名」文字をつくりました。このことはわが国が外国文化を移入する上で大変便利であったと思うのです。つまり外国の言葉がその音のまま日本仮名で表わされて新しい日本語として通用するからです。
中国では仲々こうはいかないようです。私は昨年秋、蓼科のゴルフ場で思いもかけずホール・イン・ワンをやりました。ささやかな記念品にテレフォン・カードを添えてゴルフ仲間にご挨拶することにしましたが、折角だからその時の状況を漢詩にでも纏めてカードに記したらどうかと思いたちました。コースは白樺の葉が黄色く色づいてそよ風に揺れており、後方には八ヶ岳が聳えて空気は清らかであります。そこで「黄葉揺風山気爽」までは一気に出来ました。そのあとの七言の前句「俄起歓声」も事実の描写ですからわけなく考えられたのですが、あとの三文字で「ホール・イン・ワンをほめ讃える」ことを表現しなければなりません。第一中国語でホール・イン・ワンを何というかが分らない、そこで知合の中国人に助力を乞いましたところ、翌日その中国人がやって来て、中国では「一次進球」と訳すようです、というのです。しかし、「一次進球」ではどうにもなりません。あと三文字しかないが何か名案はないかと相談しましたところ、彼はしばらく考えておりましたが、それでは「賛好球」にしたらどうでしょう、中国では野球のホーム・ランも好球ですしサッカーのゴール・インも好球ですから、といいます。成程それはいい、ということであとの七言は「俄起歓声賛好球」でどうにか纏まりましたが、外国語を中国語に移すことは仲々簡単ではないようです。
私はずっと昔、アメリカのモンタナ州東北部にあるグラスゴウという小さな町を訪ねたことがあります。用事がすんだ翌日は車で一時間ぐらいの近くのRANCH(牧場)で"BRANDING"をやるというので見物に出かけました。"BRANDING"というのは牧草が青くなり犢を放牧に出す前に自分の犢に烙印をつける行事で、この地方では一種のお祭り行事になっているようです。RANCHでは若いジーンズ姿の娘たちが三人がかりで犢を圧えつけ焼鏝でジュッと犢に烙印を焼きつけます。生くさい臭いと白い煙がパッとたって烙印は終了、犢は痛くも痒くもない顔付でピョンピョン跳ねてゆきます。
ところでこの烙印の図案は殆んどがアルファベットの組合せで考案されていて、TF AB MTといった具合です。中にはハートのTというのもありました。ところで面白いのはこの横に寝たアルファベット(HP編集子注:本HPでは斜字で示す)を彼等はLAZY(怠けもの)と呼ぶのです。即ち横になったFはLAZY F、同じようにBはLAZY Bというわけです。つまり横になるということは怠けもののすることなのです。文字を擬人化するなど、ちょっと横文字人種の体臭を感じます。
文芸作品、殊に詩歌などの分野にあっては「ことば」を選ぶことが第一義的な仕事で、民族の個性や情緒はこの分野で最も特徴的に現れます。これを他国の「ことば」に移すことは仲々むつかしいようです。晩唐の于武陵という詩人に次の有名な送別詩があります。
勧酒
勧君金屈巵(君に勧む金屈巵(きんくっし)=把手のついた金の盃)
満酌不須辞(満酌辞するを須(もち)いず)
花発多風雨(花発(ひら)く時風雨多し)
人生足別離(人生別離足る)
日本でも作家、詩人がこの詩の日本語訳を試みております。中でもよく知られているのが
井伏鱒二の次の訳であります。
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
しかし私にはどうも原詩の感じが一〇〇%移されているようには思いません。
日本にも古いもの新しいものと日本語ならではの美しい和歌や俳句、詩歌があります。次の三好達治の詩などは度々阿蘇を訪れたことのある私にはなつかしく好きな詩でありますが、この詩の情緒を中国語や西洋語に移すとなると仲々むつかしいことでしょう。
艸千里浜(抄)
しかはあれ
若き日のわれ希望(のぞみ)のも
二十年(はたとせ)の月日と友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思はれ人と
ゆく春のこの曇り日や
われひとり齢かたむき
はるばると旅をまた来つ
杖により四方(よも)し眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)
名もかなし艸千里浜(くさせんりはま)
ところが自然科学とか商取引に関する分野では外国語の移し入れは割合に容易であり、時には外国語をそのまま使ったほうがより効果的である場合があるようです。これは昭和恐慌で潰れました鈴木商店の支配人金子直吉の話であります。一九一四年七月に第一次世界大戦が勃発いたしますと貿易や海運は大混乱に陥りました。金子は海外各地に布陣した若手俊秀からの情報を綜合し、早くも開戦三ヶ月の十一月に「凡ての商品、船舶に対する買出動」の大方針を決定いたします。そして信頼する若い高畑ロンドン支店長に"BUY STEEL, ANY STEEL, ANY QUANTITY, AT ANY PRICE"という電報を打って裁量の一切を彼に委ねております。この電文は私は絶品だと思います。そして日本語よりも実感が出ているのではないでしょうか。
福岡市長
桑原 敬一(昭15卒)東京修猷会の皆様には、首都圏を舞台にますますご活躍のことと、心よりお喜び申し上げます。また、地元福岡への日頃からのご支援とご協力に対しまして厚くお礼を申し上げます。
また、一月十七日の阪神大震災により甚大なる被害を受けられた関西修猷会の皆様に心からお見舞い申し上げます。二度とこの様な悲劇が繰り返されることがないよう、心から祈願いたすものでございます。
さて、私は、昨年十一月、市民の皆様のご支援を得て、第三十一代市長として引き続き市政を担当させていただくことになり、また、全国市長会会長の重責も全うすることになりましたが、今回は、水道の給水時間が制限されているという特異な状況のもとでの選挙となりました。本市は、気象庁観測史上最少記録という異常少雨による大渇水に見舞われ、平成六年の五月から十一月までの雨量は、あの「福岡砂漠」と呼ばれ市民全体が大パニックに陥る事態が生じた昭和五十三年の同期間に比べても、その六十%程度を記録するに過ぎないという最悪の状況に追い込まれていたのです。
相手候補は、「雨が降らないのも市長の責任」と攻めてきます。常識で考えれば、そんなことはないんでしょうし、水の確保対策も着々と進めてきた自負心もあったのですが、私は、私を信じ、整然と節水に努め、「一滴の水も無駄にしない」生活を日々送っておられる市民の皆様と接していますと、「何百年に一度の予見不可能の出来事」との一言でこの事態を表現し、この問題を天災として処理してしまう事にためらいを持たざるを得なかったのです。
私は、この厳しい選挙戦の中で、「我らが修猷館の先輩方が私の立場であったらどう対処されるだろうか。」と考えました。そして、一冊の愛読書が頭に浮かびました。それは、昨年亡くなられた地元作家の北川晃二先輩の「黙してゆかむ」という著書です。首相、外相として平和の維持に尽力されたにもかかわらず、また、太平洋戦争に積極的だった多くの人々が自己弁護に努める中で、一言の弁明をも行わずに戦争責任を負って極刑を受けられた広田弘毅先輩を描いたものです。「この大渇水をどう受けとめたらよいか」の私の結論は、「黙して行かん」でした。つまり、福岡市長として私が行うべきことは、相手と天災地異論争をしたり、選挙用に何やかやとアピールしたりすることでなく、ただ、福岡市民に二度とこの様な苦労をさせないように一〇〇年に一度の大渇水にも耐え得る都市づくりに努めること、それ以外にないと心に決めたのです。
そこで、選挙中は機会ある毎にその気持ちを「雨が降らないのも私の信心の足りなさ」と表現し、また、率直に制限給水についてのお詫びを行い、当選後直ちに「海水淡水化の導入」、「ダム群の連携、貯水の相互融通」、「中水道の活用」、「渇水専用ダムの建設促進」など「大渇水にも強いまちづくりの推進」の実現にとりかかったのです。そのほか、様々な試練を修猷魂で乗り切った選挙戦であったことをここに報告させていただきたいと思います。
さて、私は、昭和六十一年の市長就任以来、全市民的立場に立って、清潔で公平な市政運営に努め、一期目は、まず、その遅れが目立っておりました市民の日常生活を支える道路や下水道などの生活基盤の整備とともに、九州、西日本の中枢都市として、またアジアの交流拠点都市としての広域交流基盤の整備など、都市としての骨格づくりを進めました。そして二期目には、「福祉」「環境」「文化」に軸足を移し、福岡型福祉社会の構築や環境にやさしいまちづくり、個性ある都市文化の創造など、ソフト面の仕組みづくりに力を入れました。
さて、これからの都市についてですが、様々な施設が整い、それを運用する仕組みやソフトも大切ですが、それだけでは本当の住みやすさは生まれません。質の高い住みやすい都市をつくり、誇りと愛着のもてるまちをつくるためには、隣人を愛し、自然を愛し、まちを愛する。この様なハート・心を育み、そこに住んでいる人と行政が一緒になって考え、そして実行していくことが何より大切だと思うのです。
そこで、三期目は、広範な市民参加のもと、思いやり豊な「ハート」を育み、一人ひとりが「やさしさ」「ふれあい」「ときめき」を実感できる真に住みやすい都市として、また二十一世紀においても活力と魅力に満ちた都市として本市が発展するよう、全力を傾注してまいりたいと考えています。
そのため、これからの長寿社会を高齢者の皆様が、住みなれた地域や家庭で生きがいを持って、また、安心して暮らすことができるように「ホームヘルプサービス」や「在宅ケア・ホットライン」を充実させ、地域の皆さんのご協力を得ながら寝たきりに「しない」「させない」「ならない」という「寝たきり三ない運動」を展開するなど高齢者を見守り支えあうまちづくりに努めてまいります。特に、寝たきりにならないよう、市民の自主的な健康づくりをお手伝いするため「健康づくりセンター」を核とした健康づくりのネットワークづくりを進めてまいります。また、こどもたちが自由に集まり交流できる活動の場を整備するなど健やかな青少年を育むまちづくりや子育てのための「ファミリーサポートセンター」の充実、女性が能力を発揮して安心して社会参加できるまちづくりを行いたいと思っています。
そして、いよいよ、目前に迫った「ユニバーシアード福岡大会」でございますが、この学生オリンピックには、世界百三十カ国・地域から六千人を超える選手・役員の参加が見込まれており、この八月二十三日から九月三日までの十二日間にわたって開催することにいたしております。この大会を支える「市民の会」の会員は二十万人を、通訳ボランティアも目標の一万人をそれぞれ超えており、「市民が主役」となった多彩な交流が展開されるものと期待されています。特に各小学校区が一校区ごとに参加国等の一つのを応援する「校区ふれあい事業」を行うこととしており、これらを通じ、世界各国の次代を担う若者との心と心の交流を図ることによって、友情と交流の精神を次の世代に引き継げるような意義深い大会になるものと確信しています。この大会開催中に皆様の愛する福岡に是非お越し願い、その成果をご覧になっていただきたいと存じます。
最後に、東京修猷会の皆様がさらに世界に飛躍されますことと、本会の更なるご発展を心から祈念いたしまして筆を措かせていただきます。
館 長
船津 正明(昭32卒)修猷館は、創立以来二百十年を迎えました。江戸時代の藩校として創立されたのが天明四年(一七八四年)であることは、御承知のとおりです。これを記念して、平成七年五月三十日に二百十周年の記念式典を行うことにしております。五月三十日を創立記念日とするのは、福岡県立修猷館となったのが明治十八年(一八八五年)であり、この開校記念日が五月三十日であったことに起因しています。
一口に二百十年と言うのは容易ですが、その年代の長さ、そして「修猷館」という校名が二百十年間生き続けていることは、日本でも稀であり、驚異の事実であることには間違いありません。しかも、修猷館が現在に至るも文武両道を実践する学校として存在し、特に大学進学においては、日本でも名だたる学校であることは、さらに驚異に拍車をかけていると思います。
二百十年の間に修猷館から巣立って行った人は、各界各層で、日本を動かし、世界に羽ばたく人材として活躍していることは、これまた周知の事実です。とすれば、修猷館に学ぶ者は、修猷館に在学する意義を十分に認識し、修猷館に流れる「修猷魂」を体得して日本及び世界に貢献する有為な人材となるべく努力精進を重ねる義務を負っていると思います。これを植えつけるのは、修猷館出身の初代館長として職を奉じている私の責務であると感じ、日々生徒に語り続けているところです。
さて、修猷館の誇りの第一が二百十年間生き続けている「修猷館」という校名としますと、第二は、やはり館歌であると思います。
修猷館では、全ての学校行事で館歌を斉唱します。特に、各学期の始業式、終業式では、館長式辞と館歌のみです。したがって、この館歌がどれほど修猷館にとって重要なものであるかは言うまでもないことです。正式には「修猷館高等学校」であることから、校歌というべきものでしょうが、今に至るも「館歌」とは驚くべきことだと思います。そして、在校生は、その一つひとつの行事で声高らかに腹の底から歌い上げます。卒業式では、全員が涙して歌います。ともすれば母校意識が薄れていく現代にあって、これほどまでに館歌が愛され、そして歌われている学校は全国でも稀だと思います。また、この館歌は、卒業しても同窓会と名がつくところで必ず歌われ、館歌を歌うことにより、自分が修猷館の卒業生であることを認識し、同窓の絆を深めることになります。肩を組み、輪になって歌う館歌こそ修猷館の誇りです。修猷館が高等学校になっても、中学修猷館と不変の館歌が存在し、同窓であれば先輩後輩を問わず歌い上げる姿に修猷館の神髄があると思います。
誇りの第三は、修猷館は未だに校訓、校則がない学校であるということです。修猷館の校訓、校則は「修猷の歴史である」と私は生徒たちに語っています。「修猷館二百十年の歴史を熟知せよ。そこに自ら校訓、校則が生み出される」と言い続けています。現代の日本に一校ぐらいこういう学校が存在してもよいし、存在しなければならないと思います。
誇りの第四は、「誇り高き先人」を有するということです。私は、日本を動かし、現在、日本の第一線に立って活躍している修猷館卒業の先人を見る時、これこそ修猷館の誇りの最たるものと思います。「修猷の先人に続け」これが生徒たちに言い続ける私の言葉です。
修猷館が生んだ日本の総理大臣広田弘毅氏は、自ら計ることなく、国家社会に貢献する情熱と気概の精神を母校に残してくれました。
やがて来る二十一世紀の日本を担うのは、今学んでいる若き生徒たちです。修猷館にあって志高く、夢とロマンを抱きながらやがて世に躍り出る若き修猷生に一段の御支援をお願いする次第です。
修猷館を心の故郷とする卒業生の皆様方の御活躍、御発展を心より祈念いたします。
今年は趣向を変えて毎月開かれている二木会のサマリーを掲載いたします。年会費をお支払いの方にはこの二木会の通知がいっていますが、全員が出席とはいきません。そこでアトランダムに選んだ三つの講演をここにご紹介します。
活字にすると字数に制限があり、実際の講演で伺ったあのエスプリの利いた話が伝わらないのが残念ですが、とりあえず初めての試みとして今回取り上げてみました。
◆二十一世紀に向けた接続可能な都市交通◆講 師
古池 弘隆現在の都市交通問題の二つの大きな原因は、世界的な都市への人口集中とモータリゼーションです。世界人口は五十五億、毎年一億ずつ増加、そして今世紀末にはその半分以上が都市に集中します。また自動車も急激に増加しています。現在世界には約六億台の自動車がありますが、毎年二千万台ずつ増えています。そのうち五億台は先進国にありますが、今後、中国やインドのような発展途上国に自動車が普及していけば、世界の自動車の台数は間違いなく倍増するでしょう。これらの自動車は都市に集中し、交通問題を悪化させます。
まず交通渋滞。昭和四十年代の半ばに比べると、自動車一台当たりの道路の長さは現在では三分の一になっています。現代の都市は自動車の普及に合わせてつくられているため、郊外へのスプロール化と都心の夜間の空洞化が起こっているのです。
交通事故も増加しており、世界中で毎年五十万人の人が死んでいます。また自動車の燃料である石油資源枯渇も問題以上に排気ガスによる地球環境汚染の問題が深刻になるでしょう。
自動車の増加はバスなどの公共交通機関の経営悪化やサービス水準の低下を招き、それが利用者をさらに減少させるという悪循環を引き起こしています。そしてバスの路線廃止は、交通弱者である高齢者や身障者、子供などの移動手段を奪うことになるのです。
このような自動車を中心とした交通の現状からは、将来に向けた持続可能な都市へのビジョンは見えてきません。ではどうすれば良いのでしょうか。
まずフレックスタイム制の導入によりピーク交通量の分散を図る交通需要の平準化や交通信号サイクルの短縮化による交通管制の効率化があげられます。
しかし、このような方法による改善には限界があります。最近では自動車の需要そのものを抑制しようという考え方が出てきています。たとえば、アメリカでは自動車の乗車効率を上げるために、カープール運動を推進しています。そのため二人以上乗っている車だけが走行できる専用斜線を設置したり、高速道路のランプで優先的に入っていける特典が与えられています。また、シンガポールのように自動車の都心乗り入れを制限している都市も出てきています。
都市における自動車交通はいずれ限界に達するものと思われます。そこで、自動車の利用に制限を加え、代替交通機関を整備することが必要になってきます。これまでの自動車中心の社会から、単位スペース当たりの輸送力がはるかに大きい公共交通機関へのパラダイムシフトを図ることが将来への持続可能な都市交通をもたらすことになると思われます。
このような公共交通を重視した都市は次第に増えてきています。わが国では各地の新交通システムや名古屋の基幹バス、ガイドウエイバスの例があります。
また短距離の交通手段としては、自転車があげられます。日本の自転車保有台数は七千万台もあります。ヨーロッパの都市のように自転車専用道や自転車専用信号、あるいは駐輪場を設置して第三の交通機関である自転車に市民権を与えるべきだと思います。
その他交通と通信の代替性や、交通と土地利用の相互依存性についてもこれから考慮していかなければなりません。情報スーパーハイウエイによる在宅勤務などが導入されれば交通量は減ります。このような都心居住などで車を使わなくても済むような街づくりを進めていくことも必要となります。ともあれ二十一世紀にむけて持続可能な都市をつくっていくためには交通が鍵になるでしょう。
◆ドラマに見る現代の男と女◆
講 師
音成 正人プロデューサーの仕事は、番組の企画、脚本家選び、労務管理、全体の予算の判断まで膨大多岐にわたります。またスタジオ収録には組合問題が関わってきますから常に時間も睨んでいなければなりません。にもかかわらず私はシナリオ・ライターに「ビードロで候」の早坂暁のように遅い作家を決めることが多く、ハードな日程を組むはめになります。
ところでNHKのドラマといえば一年一作主義の大河ドラマがまずあげられますが、歴史のスーパーヒーローの起用で一年間視聴者を飽きさせずに持たせることは結構大変なことです。
私は、一年一作の大河ドラマは視聴者にうけているのだろうか、また日本史を作ってきたヒーローだけ取り上げるのでは敗者の論理というか、落ちこぼれを見過ごしてしまうのではないか、ここは歴史の片隅にも光りをと「琉球の風」、「炎立つ」の二本をつくり、一年三ヶ月で放送してみました。結果的には馴染みのなさはいなめなかったものの、今まで日の目を見なかった沖縄、東北の歴史の見直しのパワーアップに繋がりました。
この十年位ドラマのつくり方が変わりつつあります。男と女の関係や家・家族のあり方などが大きく変わってきた中でテレビドラマも現在模索中です。日本人の行動は集団から、個人へと変わってきました。そして個人の体験、思いが集団の役割より重くなりました。特に最近では家庭における女性の役割、家における女性の位置などをテーマに、群ようこ、氷室冴子などの女性シナリオライターが、いろんな階層の女性たちの本音を書いています。彼女たちによって活き活きと写し出される新鮮な女性の姿に時代が変わりつつあることを感じます。
二十年前、テレビドラマの第一世代の向田邦子の「寺内貫太郎一家」や「時間ですよ」などでは大家族主義的な中で毎日起きるドラマを取り上げていました。あの頃のドラマにはきちっと前提がありました。倉本聡は「北の国から」で、「父親は父親らしく、母親は母親らしく、子供は子供らしく」を描いています。ところが今秋の「北の国から・スペシャル版」では、一家離散、すなわち「個人」の話へと入っていくそうです。倉本さんは一貫して時代を書いていたわけです。
次の時代は、山田太一の「岸辺のアルバム」などでした。当時私は大上段にふりかぶったテーマを考えており、山田太一に話を持っていきましたら、「もう戦後の経済発展の時代ではない、これからは個人の時代だ」と言うのです。私はそこでラフカディオ・ハーンが日本人を、日本人の精神性をどう見たかをテーマにし、「日本の面影」を作りました。外国人の生き方を通して日本人が見えてくる、いきつくところまでいったドラマでした。
これが分岐点となり、以後フジテレビを中心にしたトレンディドラマが全盛になりました。以前ならハーレークインみたいでおかしいと言われたものが、個人の生き方の時代になったことで、視聴者に「私のドラマ」として見られるようになっていったのです。
そして最近の「人間失格」では、シナリオライターの意識も相当変わってきていまして人間の心の奥底に認める残忍さ、そのような本音を出してきています。これはまた視聴者ももっと本音の部分をドラマにと望んでいるということです。視聴者の意識が徐々に変わってきているというのが現状です。
◆アメリカの銃社会◆
講 師
伊藤 哲朗このところ、アメリカで日本人が銃使用犯罪に巻き込まれる事例が増えています。アメリカでは全世帯の五十%が何らかの銃を保有し、銃は一人一丁、全体では二億丁を越え、しかも一年に四〜五百万丁ずつ増えています。増加分の大半は小型で持ち運びに便利な拳銃です。持ち歩くと目立つ猟銃などに比べ、犯罪に関与することが多いのが拳銃です。
凶悪犯罪の増加と銃増加の関係は一日には論じられませんが、次のようなデータがあります。一九六〇年〜八〇年の二十年間で殺人は八五%増え、銃使用の殺人に限れば一六〇%もの増加でした。アメリカの治安は確かに悪化したといえます。年間一万九千人の殺人事件被害者の六割が銃による死亡で、暴発など事故による死者約三千人、銃による自殺者約一万五千人を加えると、毎年三万人以上が銃によって亡くなっています。
日本では、拳銃所持は警察官など職務で持つ者及び特殊な例外を除き、認められていません。猟銃は許可制ですが、徹底した身元調査が行なわれます。殺人事件発生率は十万人に一件、嬰児殺しまで含めて年間千二百件というところです。銃を使用した犯罪は年間約七十件、殆どが暴力団どうしの抗争です。ただ最近は一般人を狙った事件も起こるようになりました。
アメリカはその建国の事情から銃に関する規制は無なかったのですが、一九六三年のケネディ大統領暗殺事件で犯人が郵送された外国製のライフルを使用したことが問題になり、六八年に起こったロバート・ケネディとキング牧師の二件の暗殺事件を契機に、今日の基本となる銃規制の法律が制定されました。これは銃砲業者に対し、銃製造の許可制、銃の輸入禁止、若年者・一年以内の犯罪者・精神障害者への販売禁止、客の住所・氏名・年齢の記録、を義務づけたものです。しかし、この連邦法には不備が多く、また州によって州法が異なるので、銃規制の実効はあがっていません。
この背景には全米ライフル協会を代表する「市民の武装が社会を守る」という伝統的考え方の根強い抵抗があります。市民の武装の権利をめぐる憲法解釈や、拳銃の入手が容易なことと凶悪犯罪発生との因果関係をめぐって、ライフル協会と銃規制を求める勢力との間に激しい議論の応酬がありますが、精緻なデータを欠くため、両者の議論はかみ合っていないのが現実です。その中で一九九四年二月にプレイディ法が発効しました。この法律は銃の購入許可を与える際に五日間の待機期間を設け、その間に購入予定者の経歴などをチェックし、問題のない者だけ許可証を出すというものです。今までの例から見るとこれだけでも大きな前進といえるでしょう。治安の悪化に対抗する方策として、クリントン政権は五万人規模の警察官増員計画も打ち出しています。
日本の治安の良さは国民性によるものでしょう。社会のあり様が犯罪に対するブレーキとなり、厳しい銃規制や薬物規制を維持しています。しかし最近、拳銃使用の犯罪が増加傾向を見せています。また、押収された拳銃の所持者は二、三年前までは九五%が暴力団関係者でしたが、今ではその割合が七四%くらいに下がっています。また押収拳銃は、かつては殆んどが改造モデルガンでしたが、今では八割が本物の拳銃です。フィリピン製、中国製、ロシア製の拳銃が多く出回っています。海外旅行で軽い気持ちで購入して国内に持ち込む例が増えているし、日本に持ち込めば高く売れると言うので密輸が増加しており、水際で銃の流入を阻止するのが非常に難しくなっています。
「いじめ」の心理と教育の本質
ハロラン 芙美子(昭37卒)−在ホノルル−日本人を父、アメリカ人を母に持つ少女が、日本の中学校に入学した。
すぐに同級生の「いじめ」が始まり、少女は何回も転校した。ついには数人からカミソリで顔を切られるという事件に発展し、アメリカ人の母親も夫と共に、校長、担任教師と会った。
みなをそそのかしてカミソリで切ったと名指された同級生とその両親も呼ばれていた。両親は「うちの子にかぎって」の連発。担任教師も、少女の話を信じなかった。
アメリカ人の母親は、かたくなに否定する同級生の顔を見守っていたが、その子の眉のあたりにかなり大きなあざがあるのに気がついた。
両親に向って「近頃はあざを取る手術は簡単なのに、どうして治療してあげないのですか」と言ったら、その子がひどく泣きだした。そのあと「ね、ほんとうはあなたが切ったのでしょう」と聞かれ、はっきりうなずいた。
アメリカ人の母親は、その手記の中で、同級生の両親のうろたえと、担任教師のばつの悪そうな固い表情について書いていた。
彼女は、「いじめ」をする側の子供達の心の傷と、愛への飢えを的確に見通したのである。
最近、アメリカの新聞にも、日本で「いじめ」の被害者が次々と自殺した事件についての記事が出る。
被害者の状況や、学校教育の問題についての解説は豊富だが、「いじめ」をした生徒達について深く分析した記事はみあたらない。
こういう事件が起るのを防ぐのが、まず教育なのだが、いったん事件が起ってしまったら、加害者である生徒にも注意を払うべきではなかろうか。
いくら未成年であるために、刑事裁判を免れるとはいっても、人を死なせたという罪を加害者は、一生、ひきずって生きてゆかねばならない。
大人になり、社会に出てゆく前に、「いじめ」を実行するに至った原因を自ら理解し、罪を悔い、許しを乞い、つぐないをするという「治癒」の作業が完了していなければ、又、他人に精神的、肉体的危害を加えるというパターンをくり返すかもしれない。
その治癒の手助けをするべき大人の集団が、日本の学校制度の中に組み込まれているであろうか。親と教師だけでなく、カウンセラー、あるいは精神科の医師、警察、宗教家などが、日頃から協力しあい、十代という人生の一時期についての理解を深める必要がある。
「いじめ」の特色は、集団で、弱いと思われた一人の生徒に心理的、肉体的危害を加えるというところにある。
こういう集団心理の持ち主は、実は、劣等感、自信のなさなどから、一人対一人の対決はおそれているものである。
又、家庭でも学校でも、真の勇気とは、弱者を守ることであり、弱者を傷つけるのは卑劣なことであるという価値観を教えられていないために、善悪の判断力そのものがない。
つまり、「いじめ」の加害者は、見事に、親と教師の人間としての不完全さを反映していることになる。
先のアメリカ人母親の手記を読んでいて、担任教師が、なぜ、生徒それぞれの心を読めなかったのかが、不思議だった。親の場合、「盲愛」もあり、自らの子供がはっきり見えない時の方が多いのは分る。
しかし、多数の生徒に毎日接している教師は、加害者、被害者両方の子供の微妙な表情の変化の意味がわからなかったのだろうか。
これにはいろいろ反論があるだろう。過剰な生徒数、授業の負担、受験競争の圧力。しかし、人間は、心が開かれていれば、他人に心がはっきり見えるものである。むしろ、直観が伝えるメッセージを認めたくないため、教師の心が閉ざされていたのかもしれない。
知識をさずけることだけが教育ではない。
「知育、徳育、体育」という言葉があるが、三者の一つでも欠けると、人間は偏りだす。
徳育ができるのは、親や教師でしかない。
ホノルルで開かれた国際高校生会議に出席したときのことを思い出す。
世界中から集った生徒が、文化、宗教のちがいにかかわらず、同じことを言った。
「子供は親を見ながら育つのだから、親に、徳の高い、悪に染まらない、愛に充ちた生き方をしてもらいたい」。
東京六八会平成六年幹事
藤本義幸(昭29卒)平成
6年は、六八会(昭和二十九年卒)にとって、卒業四十周年に当り、東京組と福岡組が合同で記念総会を開くことになった。場所は両者の中間地点と云うことで建都千二百年で賑わう京都で六月十一日(土)に開催することになった。配偶者同伴可と云うこともあり、総勢百三十人を越える大人数になり、ホテルの手配その他で福岡組の久野君の尽力に負うところが多く同君に多謝しきり。東京組は、折角の京都だからと昼間の時間を利用して、普段あまり行くことのない宇治を観光しようということになった。宇治名物の「白雲庵」の普茶料理で昼食後万福寺、平等院を見物し、藤原文化の栄華のあとを偲んだ。さていよいよ夜に入って、京都グランドホテルでの総会となったが、卒業以来始めて会う顔もあり、改めて歳月の流れを感じながらも思い出話に花が咲き大いに盛り上がった。恩師の小柳先生もご参加戴き、当時の名講義振りが話題になり、教え子達に囲まれながら終始笑顔を浮かべておられた。また、この席上で長年会の発展のためにまとめ役を果たしてこられた久野君に対し記念品を贈呈し、感謝の意を表する感動的な一幕もあった。明ければ六月十二日、日曜日、この日は自由行動とあって、市内観光組は東京組福岡組がミックスでタクシー十数台に分乗して出掛けたが、このタクシーの手配等で京都在住の中山君にお世話になったことも記さねばならない。京都はそれぞれにとって曽遊の地であるだけに有名な観光名所ではつまらないと云うことで、運転手さんに頼んでとっておきの見所を案内して貰った。平安神宮に程近い禅林寺永觀堂では「見返り弥陀」に感心し、血天井や額縁庭園で有名な大原の宝泉院では、その説明に聞き入り、等々一味違った京都見物を楽しんだ。以上一泊二日の想い出に残る旅行であった。東京修猷会の皆様におかれましては、ますますご健勝のことと心からお喜び申し上げます。
昨年は、我が四三
(よさん)会が総会の幹事学年ということで、福嶋、広瀬正副実行委員長以下幹事全員がたいへんお世話になり、本当に有難うございました。当日は、NHKの音成実行委員の尽力により、地元福岡高校出身の小松政夫氏の友情出席を得て、楽しいパーティとなりましたが、その時披露していただいた質の高い数々のギャグは、小松氏が高校の後輩である漫画家の長谷川法世氏と一緒に親愛なる修猷のためにと多忙な時間をさいて徹夜で考えられた血と汗の結晶でありました。このことを後日長谷川氏本人からお聞きし、東京の実行委員一同に報告しましたところ、全員、感謝、感激でありました。
私も福岡市東京事務所を後にして、はや一年。福岡へ戻った当初は、東の空に向かって、新宿や六本木の灯を追い求める日もございましたが、今は、すっかり中州村の夜の住人となっております。今年の総会も、いろいろと工夫が加えられ、とても楽しい催しが予定されているとか。私も上京して参加者の一員に加えさせていただくことを楽しみにしております。