東京修猷会・会報 第6号 1994年(平成6年)3月1日発行
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大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭言 | 激動する政治に身をおいて | 楢崎弥之助 | S13 |
学年便り | 昭和12年卒 | 片桐貞夫 | S12 |
昭和13年卒 | 小川浩正 | S13 | |
昭和14年卒 | 野村俊雄 | S14 | |
昭和15年卒 | 高川正通 | S15 | |
昭和17年卒 | 林 健児 | S17 | |
昭和18年卒 | 安心院幸敬 | S18 | |
昭和19年卒 | 毛利昴志 | S19 | |
昭和20(4)年卒 | 野上三男 | S20(4) | |
昭和21/22年卒 | 花田尭之助 | S22/23 | |
昭和23/24年卒 | 二村健次郎 | S23/24 | |
昭和25年卒 | 濱田桂一 | S25 | |
昭和26年卒 | 奥村秀郎 | S26 | |
昭和28年卒 | 河村為成 | S28 | |
昭和29年卒 | 桐生真一 | S29 | |
昭和30年卒 | 城川 明 | S30 | |
昭和32年卒 | 国分英臣 | S32 | |
昭和33年卒 | 滝口 勝 | S33 | |
昭和34年卒 | 松本秀三 | S34 | |
昭和35年卒 | 今田正純 | S35 | |
昭和36年卒 | 井島 稔 | S36 | |
昭和37年卒 | 小野寺夏生 | S37 | |
昭和38年卒 | 池永 清 | S38 | |
昭和39年卒 | 久保田康史 | S39 | |
昭和40年卒 | 田中俊雄 | S40 | |
昭和41年卒 | 工藤安信 | S41 | |
昭和42年卒 | 土井芳夫 | S42 | |
昭和43年卒 | 福嶋慎一 | S43 | |
昭和44年卒 | 伊佐 裕 | S44 | |
昭和58年卒 | 大浦公大 | S58 | |
総会案内 | 平成6年度東京修猷会総会案内 | 総会担当幹事 | S43 |
’93総会報告 | 「平成5年度の東京修猷会・・」 | 長野倬士 幹事長 | S29 |
二木会便り | 多士済済の講師陣 | 黒宮時代 | S41 |
人 | 「ご存知ですか 森氏は修猷S17・・」 | 会報事務局 | --- |
事務局より | 会費納入のお願い | 長野倬士 幹事長 | S29 |
編集後記 | 会報事務局 | --- |
昨年秋、それまで六回にわたって辞退していた叙勲を受けました。おこられるかもしれませんが、実際の話、私は勲章には関心がありませんでした。だから何度もお断りしてきたわけです。今回いただく気になったのは、念願していた非自民の細川内閣が誕生して最初の叙勲決定ですから、一つの記念になるかな、と思ったわけです。それと、私事になりますが、家内が亡くなって八年。苦労をかけて死なせてしまいました。もし生きていれば昨年は結婚五十年の金婚式になる。家内のためにいただこう−そう思ったのです。
いただくことにしたものの、それからが大変でした。私は呉服屋の息子で、紋付しか持ってない。「どういう格好していくとな」ときいたら「燕尾服でなければいけません」という。モーニングでもだめ。勲一等の場合は、肩からタスキのようなものをかけますが、あれが大綬というのだそうで、それに勲章をつける。モーニングでは勲章が隠れてしまうというわけです。「燕尾服なんか持ってない」というと、「今は貸すところがあります。紹介します」というので、銀座のデパートの七階に行きました。そうしたら、モーニングの借り手はたくさんあるから、体型に合わせてサイズが揃っているのに、燕尾服は借り手がないから大、中、小の三つしかない。見ての通り私は、武田鉄矢ほどではないが、短足なので、ウエストが合うのを着るとズボンが二センチぐらい合わない。売場の女性が「あと一週間あるから腹の方を二センチ小さくして下さい」ととんでもないことを言う。戦時中軍隊に行った時、靴が足に合わなかったら、足を靴に合わせろ、と言われたのを思い出しました。「洋服の方に自分を合わせるのはできない。家にいるから、勲章を持ってきてくれ」と言ったら、「それは困ります。宮中に行ってもらわねば」ときかない。仕方がないから二日間、絶食しました。
さて当日。総理府の人に、「皇后さんがいじめられようけん、皇后さんを助けて下さいと言いたか。言ってよかか」ときいたら、「とんでもない」との話。そこで、一メートル前に出て、じーっと天皇さんの顔を見て、にたっと笑ったら、天皇さんもじーっと見て、にたっとわらわれたから、大体心が通じたのではないかと思っています。
少しばかり政治の話をしましょう。
現在の政治の局面は、国際的にみれば冷戦構造の崩壊であり、国内政治構造でみれば、自社二極体制の崩壊、再編過程にあります。言い換えれば、対立の図式で固定化し一応の安定を保っていた五五年体制の明らかな崩壊過程にあります。一方、社会構造は、多様な要求、多彩な価値観、多面的な市民意識が社会の各階層を縦に横に交叉する多次元社会になっています。こうした多次元社会においては、各階層を既存の古いイデオロギーや硬直した体制観で保守だの革新だのと線引きすることにどれほどの意味があるでしょうか。
細川政権は、こうした政治・社会背景のもとで、「とにかく一刻も早く自民党一党支配の政権だけは終わらせる」という国民の率直な声に応える形で誕生しました。八党派の合意文書にあるように、細川連立与党はそれぞれの党略を捨象して、政策の許容限度を明確にし、大異をはなれてまず小同につく大連立形態を構想し、実行に移したものでした。私たち社民連は、自民党一党支配を崩壊させる政権交替可能なもう一つの政治勢力結集の接着剤となり、プロモーターの役割を目指して行動してきました。その初期の目標は細川政権樹立によって第一段階の歴史的使命を果たしえたと思っています。
政界再編第二波はいずれ必至でしょう。第一段階の歴史的使命を果たした私たちは、いよいよ次なる先駆的役割を果たすときが到来したと考えています。
楢崎弥之助氏の略歴大正九年生れ七十三才。昭和十三年中学修猷館卒業。九大法卒。社会党結党に参加、五十二年離党。社民連結成、書記長就任。衆議院議員当選十一回。現在社民連国対委員長。平成五年秋期叙勲に際し、勲一等旭日大綬章受章の栄に浴す。
卒業したのは二百余名だったのが、今は総勢百二十五名、その三分の二が九州で、東京圏は現勢二十七名になった。
昨年は全国大会が五月十七日、名古屋で催され、夫人十名を含み三十一名が集まった。また秋にはニュージーランド、中国旅行も企画され盛会だった。
東京では十二月三日忘年会に八名集まり気炎をあげたが、皆何がしかの故障を抱えており八十才の坂を越えるのは容易なことではなさそうだ。集まるのは常連ばかりで病人と無関心派が半ばを越えるのは寂しい限りだ。来年からはクラス会も昼にして老人たちが集まり易くすることになった。
(片桐 貞夫) 昭和十三年卒修猷五十星会の卒業五十五周年記念同窓会は、五月二十六・七の両日ホテル海の中道で開催、出席総数三十三名中東京より七名が出席、ソウルの金振澤君も参加され盛会であった。初日の懇親会で旧交を暖め、二日目はホテル専用のクルーザーで博多湾一周のクルージングを行って解散。
また、東京支部の定例会合は十一月十二日東京青山会館において開催。平成五年の秋の叙勲で勲一等旭日大綬章を受章された楢崎弥之助君が出席され、宮中正殿松の間における親授式の模様など詳細な説明があり、出席者一同、同君の栄誉に祝意を表した。高村君の配慮による昼食会は奇数月に開催、毎回話に花が咲いている。
(小川 浩正) 昭和十四年卒同期の皆さんお元気でお過ごしですか。
今年の定例懇談会は九月十三日(新橋あかね)、ゴルフ会は四月二十八日(大宮国際CC)及び十一月の二回を予定しています。詳細は追而連絡しますが、最近、やゝ参加者が減少気味なのが気にかかります。お互いに元気な姿で集まって、近況を語ったり修猷時代の思い出話しに花を咲かせるのを楽しみにしていますから、奮って参加して下さい。
昨年七月に弓崎輝明君が亡くなられました。ラグビー部で活躍して元気だった同君の面影を偲び、ご冥福を祈ります。
(野村 俊雄) 昭和十五年卒 満月会昨年の卒業五十周年記念同窓会を期に「二十一世紀を皆で元気に迎えよう」を合言葉に平成五年を迎えた。すでに「古希」を迎えた会員もあるが、殆どの会員は平成六年に古希を迎える。
残念ながら古希を目前に相次いで二人の友が他界し、現在東京支部の会員数は五十四名である。本年の東京支部同窓会は若干趣を変えて、十月二十日十二時より遊覧船シンフォニーTで昼食会をかねて行った。終始楽しい話で盛上がった素晴らしい会であった。ついで三時より浜離宮庭園に移り五時に名残を惜しみつつ解散した。参加者は福岡、大阪よりの参加者を含め二十五名(内婦人五名)であった。
(林 健児) 昭和十八年卒 東京一八会東京地区一八会では毎年原則として、一月と八月に同窓会を催しています。昨年は我々同期の卒業五十周年を迎え、福岡で全国大会を催し、縁者も出席頂き物故者の慰霊祭も行われました。現在同窓会出欠の案内状の宛先は三十五名で、二十名前後の出席者があります。最近では出席者も殆ど同じ顔ぶれとなり経年減少するのが淋しい事です。
古希を迎えた今日では過半数はリタイヤーし、或は悠々自適し、或は趣味を生かし、旅行を専らとしている元気な友人達も居りますが、病後の休養、体調不十分で安静を旨とする友人も出始めました。同窓会の幹事としては何とか全員が出席出来る会を催したいのが夢です。名案がありましたらどなたか御教示をお願い致します。
老麒伏櫪 志有千里 烈士暮年 壮心不己
(安心院 幸敬) 昭和十九年卒 五十六会東京昨年は春(ふくおか会館)、秋(三菱重工会館)二回の同窓会を行った。この他暑気払いを電話連絡で行ったが、定期同窓会より集まりが多く、時間的に余裕が出来た者が増えたせいだと思われる。
又誰彼ともなく声を掛け合い美術館、博物館めぐりを始めたが、幸い画家の宮崎照雄君、歴史学者の塚本学君の解説付で見学するので本当に判ったような気になるものである。これからも、さそい合って見学を続けて行きたい。
昨年末住所不明だった、岩倉富駒君が朝霞市に居住している事が判り、次回同窓会で会えるのが楽しみだ。
平成六年は我々修猷卒業五十年目、五十六会にちなみ、五月十六日福岡で盛大な記念集会を行うとの事である。東京からも多数参加し旧情を温め合いたいものである。
(毛利 昂志) 昭和二十年(四)卒 践修会新緑映え、風薫る五月八日。半蔵門のふくおか会館で、東京践修会総会を開催しました。出席者は、会員十九名、夫人三名、福岡からの参加二名の合計二十四名。毎回上京してくれる高松隆之助君から福岡本部の報告。一昨年九大総長に就任した和田光史君から、「大学移転問題も含めて、大学は常に時代の要請に適応した改革の連続でなければならない。」との挨拶でした。
今回はふくおか会館の座敷二間を通しての会食、談論風発、会話もつきず、アルコールも時間も追加。館歌・応援歌の斉唱の後、来年の再会を約して散会しました。平成七年には我々も卒業五十周年、まずは来年から一層の参加を期待します。
(野上 三男) 昭和二十一・二十二年卒 破竹会戦後の混乱期に卒業した我々学年も大方六十五才を迎える事になりました。東京の破竹会は幸いにも、昨年は一人も欠ける事なく、社会の第一線に、また自由人として益々元気旺盛です。
しかし定年を迎え福岡に帰る人、重責を負うて単身赴任する人などの動きも見られます。また本年より、東京破竹会の幹事を二十年余一人で切り盛りして来た一万田君に代り、花田、筑摩、南雲、阿部の四君が引き継ぐことになりました。会長の小澁君は従来通りです。今年は全学年の破竹会が関西で計画されています。皆々と元気に会えることを楽しみにしています。
(花田 尭之助) 昭和二十三年・二十四年卒 六〇会報告斗酒尚辞せずを誇っていた仲間達も年には勝てず、医師や薬屋と親戚づいあいが始まり、それでもうまい酒が飲みたい一心で健康回復に励む姿をみると、いずれ我が身もそうなるかと哀感ひとしおの昨今である。
とはいえ、同期の中にも例外は数多く、東映社長就任の高岩淡君はその筆頭、東京では福岡会館、京都では京新山で同期有志相集い就任祝いの名目ながら、主客判然としない大騒ぎ。
一部上場会社に働く同期諸兄に告ぐ、同じ社長になるなら早くなってくれ給え、一年毎に急速なパーセンテージで参会者は減ってくる。
(二村 健次郎) 昭和二十五年卒今年も年一回の同期総会、月一回の会合「三木会」を続けました。毎月十名以上参集し、ワイワイガヤガヤやっています。又年二回のゴルフコンペのほか年数回誘い合ってゴルフや麻雀に興じています。勇退組も増えて悠々自適に青春に帰って・・・と同級生で楽しんでいます。
残念ながら今年も松井康矩君がガンのため逝ってしまいました。
人生八十年の時代、皆身体にだけは注意しようと言い合っているところです。
(濱田 桂一) 昭和二十六年卒平成五年五月二十六日、福岡から水弘太郎、児島敬三先生、在京の横田昌廣先生出席のもとに大漫会(昭二十六年卒の関東在住者)が開催された。四十名を越す会員が旧交を暖め、大変な盛り上がりのなか三時間が瞬時のうちに過ぎさってしまった。
会を結成して三十年が過ぎレギュラー七十名の中で例年四十名前後が集い、年度幹事、常任幹事の役割や運営規約もあり、その結束力は大変なパワーをもっており、福岡在住の準会員の支援もあって、財政面も確立されてきている。昨年還暦を迎え多くの人が第二の人生を歩み出したが、今後より一層大切な会として、積極的な運営に意を注いでいきたいと考えております。
(奥村 秀郎) 昭和二十八年卒猷友会は昨年卒後四十年の節目であった。総会は六月五日ホテル海の中道、同窓出席者百四十三名(女性四十九、男性九十四)は石田清房、児島敬三、庵原義夫、柴田穂積、水藤勝之の恩師の方々のご来駕をたまわり、美しい芝生の庭園で挙行した。よく会っている仲間は勿論であるが四十年ぶりの邂逅に時間のギャップはなかった。二次会、三次会と同ホテルのバーでよく飲みよく語らい、囲碁同好の諸氏は夜も更けた二時を回っても打ち続けていた。
四十周年会は地元猷友会のきもいりで企画されたが、それに先立ち五月三十日の母校創立記念日に日根野穣君が「日本の宇宙産業」をテーマに記念講演を行い、一寸一杯の前夜祭に始まり西戸崎
CCでのゴルフ総会翌日の博多湾クルーズまたその後は湧泉亭が隣の辻会長邸で「木漏れ日の集い」(参加者五十余名)を行い関東関西の面々は飛行機の時間ぎりぎりまでそして三々五々と散会した。最後に平成になっての物故者の報告、田平充也君、島田稔君、久芳泰之君、篠原脩夫君、八谷敏宏君、そして昨年十月末東京修猷会とりわけ二木会に熱心に出席していた出光弘明君が心不全で亡くなっている、ご冥福をお祈りします。
(河村 為成) 昭和二十九年卒 六八会会の年中行事がこのところ定着した感がある。六月の総会終了後の集会には、同窓会役員の平田豊君が福岡のニュースを持って来て呉れ常に盛会である。十月二・三日は伊豆天城へ一泊旅行。毎年東急ハーヴェストクラブを格安に利用させて貰っている。今回は近畿からの参加を得て四十五名出席。二日目は生憎、深い霧と雨にたたられゴルフ、テニス、ドライブ各組ともさんざんであったが、これに懲りず次回を期待したい。忘年会は十二月九日、二木会と重なってしまったが目先を変え、川崎日航ホテルで開催した。これらの会合のほかにも何かと理由をつけては気軽に集まっている。
(城川 明) 昭和三十二年卒 東京修猷三二会大多数の同期生が昨年五十五才を迎えました。サラリーマン諸兄はひとつの転機にさしかかった年でした。日本中不況の波に晒された年でしたが、明るい話題は同期生の船津正明君が、卒業生として初めて母校の館長に就任されたことです。六月の東京総会には小柳先生、船津館長、角統君、山本知子さんが出席されましたので、皆さんを囲み賑やかに三二会を開催できました。平成九年には卒業四十周年を迎えます。特別行事としてハワイ旅行(配偶者同伴可)が福岡側で計画されていますのでご期待下さい。
昨年の移動(判明分)は転入、立石浩、国弘征郎、柳川舜一、太田隆之、転出は武井千秋、村上光一、辻英男の各君でした。情報洩れがありましたらご一報下さい。
(国分 英臣) 昭和三十三年卒昨年は卒業して三十五年となり、記念の雲仙旅行を盛大に行った。実は三十周年の時四十周年まで待てんけん三十五年もやろうやとの声が沢山ありその時の約束が実現した。世話役に人材が揃っているのも見逃せない。出席者は八十二人、内女性は十九人。恩師は八十才をお迎えになった石田先生唯一人だった。昨年のテーマは「朱夏燦燦」。時は急ぎ足で容赦なく通り過ぎて行きます。この日だけその歩をとどめつかの間の青春回帰に酔う贅沢こそが、さんざん会の特権ではないでしょうか。熟年実年、そんな言葉を打ち払い、青春に続く人生最も盛んなる時を讃え。話題は専ら孫の話不況を生き抜く話ハゲ・デブ・ボケ等に終始した。早くも四十周年が待ち遠しい。
(滝口 勝) 昭和三十四年卒恒例の三思会忘年会、十二月三日新宿の「玄海」にて開催。出席者四十名弱。平成不況の只中だが、集まる顔は稚気満々、不思議にあの頃の面影を色濃く残している。「ヨッー」「何ばしとるとや」「ちっとも変わらんね」そこかしこで博多弁が飛び交う。懐かしい。五十路を越えて定年が目の前に迫ると、ひとしお故郷への思いが募るのだろうか。あれこれあったけれど、とにかく元気で生きてきたのだから、これからうんと長生きしましょうや。
今年は修猷館卒三十五周年。福岡では十月、学年幹事を中心に華々しい一大イベントを企画しているとか。詳細は追って知らせます。多数の参加者を期待しているそうです。
(松本 秀三) 昭和三十五年卒昨年の三五(珊瑚)会では、山崎広太君の衆議院議員当選、中川勝弘君の通産省貿易局長就任、デュッセルドルフで開業医として大成功の柏木茂生君の一時帰国等明るいニュースに沸きました。反面サラリーマンの多い東京珊瑚会では、年令的に
XX会社へ出向あるいは転籍、の便りもちらほら。人生の転機にさしかかり、学舎を共にした仲間の友情の嬉しさを感じる頃となりました。昨年は一月に東京住友クラブで、六月に日比谷「松本楼」で東京珊瑚会を開催。毎回初参加数人を交えて友達の輪が広がっています。田代信吾君と幹事を担当しており、今年も六月に会合を予定してますので、奮ってご参加下さい。(今田正純) 昭和三十六年卒 三六会情報昨年の一月には上野の伊豆栄にて四十数人の同期会を催すことが出来ました。五月十五日−十六日には近畿三六会主催の会に、神崎君と二人で参加し、和歌山県の新宮まででかけ、旧姓矢ケ部さんをはじめ、近畿の皆様と旧交を温めて来ました。
その後十一月二十七−二十八日に再び近畿三六会の定例会に、小生一人で参加しました。東京は百人以上会員が居るため段取りが大変で、年一回が限度かと思いますが、近畿は少人数のためまとまりが良く、連絡も取りやすいので良く集まっているようです。彼らは全国に声をかける積もりにしているのでぜひ参加して下さい。
東京三六会は、この号が発行されるまでには開催されていることと思いますが、間に合わなかったらお許しあれ。
(井島 稔) 昭和三十七年卒昨年は六月二十六日、東京修猷会総会の終了後新日鐵新山谷寮で三七会を行いました、出席者は二十一名とやや少なめでしたが、老後の心配、子供の就職のための情報交換等、年齢を思わせる話がはずみました。福岡から大浦克仁君が来会し、百道浜の変貌の様子等を話してくれました。
また、昨年は近畿修猷会の幹事学年が三十七年卒で、石丸鐡太郎君はじめ関西の同期諸氏が大活躍されました。十月十六日の総会には東京から武田、小野寺の二名も参加しました。
最後に哀しいお知らせ。東京で闘病生活を送っていた内藤常光君が十一月一日永眠されました。元気になって東京の三七会に出て来てくれることを祈っていたのですが。謹んで哀悼の意を表します。
(小野寺 夏生) 昭和三十八年卒卒業三十周年を機に是非修学旅行をということになり、八月末各地から京都へ集合。初めての修学旅行が実現しました。以下は、参加した八十名のうちただ一人学生服を着て参加した三嶋隆夫君(フランス菓子十六区)の旅行記。
『前の晩アイディアが浮かび、後輩を探し何とか着れそうな学生服を見つけた。翌朝着替えていると愛妻が「宴会でお召しになるんじゃないんですか?」と冷やかな視線。「何を言う、修学旅行に学生服で行くのは極めてノーマルなことである。餞別よこせ」とすでに興奮。何年かぶりに腕にすがり「人に見られたら、私、買い物にもでられません」と懇願するのをふりほどき、とりあえず店に顔を出した。バカ受けに気を良くし博多駅へ。口に手を当ててふき出す若い女性、キョトンとして立ち止まる人達の暖かい(と感じたい)視線を浴びつつ無表情を装いホームへ。集合場所に着くや大歓声、合流の京都駅でも大喝采。オジサン、オバサン八十余名は三十年前に戻り、学生専用の旅館で、枕投げこそないものの、徹夜で大宴会にふけった。』
かくして初めての修学旅行は予想以上の成功を納めることができました。
(池永 清) 昭和三十九年卒東京昭三九会の皆様お元気ですか。
今年は修猷館を卒業して、いよいよ三十年ということになります。月日の過ぎ去ることの早さに驚くばかりです。
昨年は、福岡の昭三九会が、同窓会総会の幹事学生で、東京昭三九会からも大挙お手伝い(?)に出かけ、多くの同級生と再会を果たすことができました。
今年は卒業三十周年の記念行事が、盛大に開かれる予定です。日程、場所が決まりしだい御連絡致します。多数御参加いただきますようお願い致します。
(久保田 康史) 昭和四十年卒 東京修猷しっとう会働盛りの年男、年女の東京修猷しっとう会の皆さん、お元気ですか?第二の人生設計も頭の隅に描きつつ、今年の計画(仕事、生活)に全力で取り組む決意も新たにされていることでしょう。しっとう会の昨年の活動は、東京修猷会総会と同日の六月二十六日「だいご」で二十数名が集まり楽しく開催されました。
今年は福岡の総会(五月二十九日修猷館高校講堂)の幹事年に当たります。東京からも出来得る限り多く参加し、福岡の仲間を応援しようではありませんか。東京修猷しっとう会の同窓会を福岡で開くのもよいでしょう。なお、今年の担当は、六組です。
(田中 俊雄) 昭和四十一年卒昭和四十一年卒は、1992年度の東京修猷会総会の幹事、またその後一年間にわたる二木会の幹事の責任を終え、やっと一息ついているところです。実際に担当された方、本当にお疲れ様でした。
1992年暮れの忘年会を兼ねた同窓会において、この同窓会を正式な第一回として宣言したとおり、昨年十一月二十七日に同じ半蔵門会館において、四十人以上の規模での盛大な第二回忘年会/同窓会を開催することができました。昭和四十一年卒はいわゆる「団塊の世代」の最初の年代で、いろいろな意味での苦難の時期を迎えておりますが、それでも、初めて参加した者も多く、また、独立してビジネスを始めた者、海外で活躍している者、転職して新しい舞台での活躍を志向する者と前向きな話題にも恵まれ、さらにビンゴ・ゲームも飛び出す中で、蓄積されたエネルギーと今後の飛躍を感じつつ、二次会へと繰り出しました。
「これまでの三十年間は、コンピュータを売る側で仕事をしてきました。これからの三十年間は、コンピュータを使う側で仕事をしていきたいと思います。」これは、最近、某外資系の世界最大のコンピュータ・メーカーの日本法人の副社長が、やはり外資系のビッグ6に属するコンサルティング会社の日本法人の社長にスカウトされた際に言われた言葉です。五十歳を越えた人のこの言葉にもあるように、我々の年代は、ようやくスタート地点に辿り着きつつあるとも言えます。頑張りましょう!
(工藤 安信) 昭和四十二年卒昨年は伝統ある東京修猷会総会の運営を、我々四十二年卒が担当しました。一昨年の七月からの準備開始であった為、例年より遅いと先輩諸兄に御心配もおかけしましたが、皆さんの御協力で無事終了でき、ほっとしています。総会当日の園田康博君率いるジャズバンド・女性陣の甲斐甲斐しいコンパニオンぶりが好評でした。
今回の準備を通し、多くの同期生と再会でき、東京一九猷会として、百三十名強の名簿が確認できました。総会当日は福岡から石村君ほか十三名を含め七十八名の同期が集まり楽しく旧交を温めましたが、これからも年に一度位気楽な集まりで、東京一九猷会の結束を強めていきたいと考えていますので、御期待ください。
(土井 芳夫) 昭和四十三年卒 東京四三(よさん)会今年は、いよいよ東京修猷会総会の運営担当学年。来る六月四日土曜日午後二時、ホテル・グランドパレスでの総会開催に向けて高まる緊張の中、幹事長始めとする常任幹事会、事務局、先輩諸氏の御指導、御支援を頂きながら、我ら昭和四三年卒、東京四三会総動員で鋭意準備中。「自分達も楽しみ、皆様にも楽しんで頂ける総会を!」を合言葉に、全員集合やら各係打合せに、その後の飲み屋で日々深まりゆく「親睦」と「結束」。それを宝に、微力ながら、担当学年として最大の努力で準備しますので、皆様の御支援と、総会への多くの方々の御出席を心よりお願い申し上げます。
(福嶋 慎一) 昭和四十四年卒 獅子の会だより平成五年度は五月十二日(水)、銀座いわしやに24名、十一月十日、ゴルフコンペ10名、十二月十五日(水)四谷にて14名の会が持たれ、忙しい中に俺お前の楽しい一時を過ごしました。
話題は仕事の事、子供の進学のこと、サッカーのJリーグブームのこと等、人生論的には俺達の年齢はすでに人生の折り返し点を過ぎたと言う者有りでした。大企業勤めが多いせいか、サラリーマンとしての人生の終点中心主義の時間的経過論が多いようで、人生は放物線の足跡でなく、各時点での主題は違っても永遠の右肩上がりの線でありたいと思う小生です。さあ、獅子の如く本年も日々生きていこう。
(伊佐 裕) 昭和五十八年卒私たち五十八年卒業生は「いっちょやる会」といいます。昨年正月に卒業十周年を記念して、学年同窓会を福岡のソラリアホテルで行ないました。200名以上の同窓生と恩師の出席で大いに盛り上がり、久々に天神、中洲界隈で館歌や彼の群小が聞かれました。
幹事は大浦と大島です。五十八年卒で東京近辺に在住の方、もし修猷会やいっちょやる会の通知が来てなかったら、必ず連絡ください。また地方へ転勤する際にもご一報下さい。
(大浦 公大)平成五年度の東京修猷会総会は、六月二十九日に、再び従前のホテル・グランドパレスに場所を戻して開催されました。
館歌斉唱に始まり、有吉会長の挨拶、宮川副会長の発声による物故者への黙祷がなされ、次いで事業並びに決算の報告、事業計画と予算案が、いずれも満場一致で承認されました。
また、本年度は役員の改選期でしたが、有吉会長が再選され、宮川副会長以下のスタッフもあと一期留任することになりました。ただ、副幹事長の中尾大三、安部公明の両君に替わって、次期総会担当の阿部敏明、北嶋雄二郎の両君(共に昭和四十三年卒)が就任し、若干の若返りがなされました。中尾君、安部君どうもご苦労様でした。
福岡からは、本部の土屋正直副会長、船津正明新館長をはじめ来賓恩師も多数御出席いただきました。特に、船津新館長は母校出身の初の館長ということでもあり、意欲満々の御挨拶に会は大いに盛り上がりました。
懇親会は、景気低迷期の総会だということで、極力シンプルな運営に心がけました。悪天候で出席者が若干少なかったのは残念でしたが、園田康博君(四十二年卒)の率いるジャズバンドの演奏は「修猷の総会でジャズが聞けるとや」と多くの人を驚かせました。また、例年のブランケットガールの替わりに来賓の接待役を務めた四十二年卒の女性軍も美人ぞろいだと大変好評だったようです。
実行委員長の土井芳夫君をはじめ昭和四十二年卒の皆さん、大変御苦労様でした。
この四月で420回を迎える二木会は、先輩方の長年のご努力によって中身の濃い内容で続けられ今日にいたっている。去る十二月の忘年会に於いて、出席者の方々に二木会の感想を伺ってみた。
―まずどういう経緯で二木会ができたのか?
―二木会をどのように考えている?
友人たちはこの二木会が四百何十回と続いていると聞いてびっくり、さすがは修猷館だなと言っている。第一、東京修猷会の会員が六千人近くいることも驚きである。しかし若い人の参加がもっと欲しい。ある時、卒業生の友人とゴルフをしたが、その友人は息子が総会の幹事が近まったといってそわそわしている、と話していた。やはり東京修猷会総会の幹事が近付くと皆動き出す。幹事をやらされると責任を感じ、同時に縦のつながりを意識し始める。そしてこの二木会への参加が始まるようだ。同級だけでなく、上級生、下級生を網羅する勉強会はこの修猷だけであろう。
―印象に残る二木会は?
平成5年二木会公演内容
1月 | 鳥巣 元太(S41卒)(アルスデザイン) | 建築設計におけるCGの現状と将来展望 |
2月 | 井尻 秀憲(S45卒)(筑波大学助教授) | 米国の政権交代と冷戦後の日米中3極関係の展望 |
3月 | 池田 敬子(会外)(日本体育大学教授) | オリンピックと人生 |
4月 | 山崎 拓(S30卒)(衆議院議員) | どうする転機の日本 |
5月 | 二見 茂(S41卒)(安川電機筑波研究所) | ナノテクノロジーの世界 |
7月 | 宮本 雄二(S40卒)(外務省前中国課長) | アジア太平洋の安全保証 |
9月 | 土肥 隆一(S33卒)(衆議院議員) | 連立政権と今後の社会党 |
10月 | 吉戒 修一(S42卒)(法務省民事局参事) | 平成5年商法改正について |
11月 | 楢崎 弥之助(S13卒)(衆議院議員) | 細川連立内閣の行方 |
12月 | 忘年会 | 芝弥生会館 |
福岡市西区姪浜町でエスペラント伝習所を開いている元福岡市動物園長でエッセイストの森真吾さん(68)が、二十七年前からエスペラント語で文通しているクロアチア共和国の女性作家のエッセー集を翻訳自費出版した。
民族紛争が続くクロアチアの首都ザグレブ在住のスポメンカ・シュティメツさん(44)が戦時下の日常生活をつづった作品「弔銃」。空襲を避けて一日に何度も入る防空壕や、目の前で起きる銃撃戦の様子を描き、戦争の悲惨さを訴えている。
第二次世界大戦中の福岡大空襲で、目の前で自宅が焼けた森さんは、「とても他人事に思えず、私自身の反戦への気持ちが高まった。この本を通じて、今も戦火に苦しむ人たちの姿を知ってほしい。」と話す。
海鳥社刊、千三百円 (朝日新聞平成5年12月28日付夕刊記事より抜粋)
東京修猷会は、現在五千五百人の名簿がコンピューターに入力されています。そして、その会員全員を対象に「会報」の発行送付を行ない、また六月の「総会」の案内をお送りしています。学士会館で月一回開催している「二木会」については、年会費を納入いただいた会員(含前年度会費納入者)に限定して案内状を送らせていただいています。
勿論、総会も二木会も当日会費を頂戴していますが、実は案内郵送費を含めるとかなりの金額を一般会計から補填しているのが実状です。先に述べた名簿管理、会報発行を含めた必要経費を、現在一人当たり三千円納入いただいている会費収入で賄っているのです。
これ等の活動に掛かる経費は、皮肉なことに会員の補捉が進むにつれて増大してしまいました。この膨大な会員名簿の管理には大変な作業が必要です。また、郵便物の発送も大きな負担です。以前は、このような負担を、渕上先輩をはじめとする執行部のボランティア活動に依存していましたが、現在では、もうボランティアで処理出来る限界を超え経費の支弁で処理せざるを得なくなっています。
平成四年度は、過去最高の千四百人強の会員に会費を納入して戴き、何とか黒字決算になりました。しかし、本年度は会費、寄附、利息収入がともに落ち込み、学士会館会場費、郵便料金の値上げが加わって大幅な赤字が予想されています。何とぞこの窮状を救うべくご協力のほどお願い申しあげる次第です。(幹事長 長野倬士)
春三月。このところ経済の冷え込み、政治の混迷など良い事が少しもない。だが有難いことに春ともなれば自然の移ろいに影響されてか、人も明るくなるようだ。修猷の学舎を巣立ち上京してくる後輩の皆さん、そして故郷福岡を離れて東京で暮らしている皆さん、せめて年一回の総会を覗いてみませんか
(浩)