東京修猷会・会報 第5号 1993年(平成5年)3月1日発行
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大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭言 | 木の風格 | 有吉新吾 東京修猷会会長 | S4 |
学年だより | 昭和12年卒 | 片桐貞夫 | S12 |
昭和13年卒 | 小川浩正 | S13 | |
昭和14年卒 | 野村俊雄 | S14 | |
昭和17年卒 | 君島芳郎 | S17 | |
昭和19年卒 | 毛利昴志 | S19 | |
昭和20年(4)卒 | 野上三男、田中庸夫 | S20(4) | |
昭和23・24年卒 | 二村健次郎 | S23/24 | |
昭和25年卒 | 濱田桂一 | S25 | |
昭和27年卒 | 福田純也 | S27 | |
昭和28年卒 | 松尾正弘 | S28 | |
昭和29年卒 | 川原裕 | S29 | |
昭和30年卒 | 藤江武久 | S30 | |
昭和32年卒 | 国分英臣 | S32 | |
昭和33年卒 | 貫 隆夫 | S33 | |
昭和34年卒 | 水野 務 | S34 | |
昭和35年卒 | 今田正純 | S35 | |
昭和36年卒 | 井島稔 | S36 | |
昭和37年卒 | 高木卯三冶 | S37 | |
昭和38年卒 | 村瀬伸二 | S38 | |
昭和39年卒 | 久保田康史 | S39 | |
昭和40年卒 | 田中俊雄 | S40 | |
昭和41年卒 | 工藤安信 | S41 | |
昭和42年卒 | 土井芳夫 | S42 | |
昭和43年卒 | 福嶋慎一 | S43 | |
昭和44年卒 | 伊佐 裕 | S44 | |
’92総会報告 | 「平成4年度の東京修猷会・・・」 | 長野倬士 幹事長 | S29 |
二木会便り | 細川護煕氏と二木会 | 水野 務 | S34 |
1992年二木会 | 二木会事務局 | --- | |
本の紹介 | 福祉の国のアリス --山内豊徳遺稿集-- | 黒宮時代 | S41 |
事務局 | 事務局だより | 東京修猷会事務局 | --- |
編集後記 | 会報事務局 | --- | |
平成5年度総会案内 | 総会担当学年幹事 | S42 |
木の風格 東京修猷会会長 有吉新吾
枯葉が、音もなく苦しみや未練のかげもなく、はらりと枝から離れて舞い下りるさまを見ると、自分も死ぬときはあゝありたいなあ、と思う人が多いのではないでしょうか。落ちた枯葉は『落葉帰根』といわれているように、やがて土にかえり栄養分となって根から吸い上げられ再び母体の成長に役立つわけです。このように木のいのちの営みには、すがすがしいというか、尊厳なものがあるというか、そんなことを考えたくなります。
人間は年をとると風雪に磨かれて自ずから風格が具ってくるかというとそうはゆかず、かえって長い人生の苦闘に疲れ果てた哀れな老人になるのが多いように思われます。ところが木の場合は反対で、年輪を重ねるにつれ例外なしにみな風格を具えて来るから不思議です。松や檜や杉は勿論のこと、桜や欅その他の雑木についても同じです。年輪を経た大木は大きく大地に根を張って押せども引けどもびくともせず、がっちりした幹や天空に拡げた枝の全体から、ものに動じない堂々たる風格がにじみ出て来るように思われます。この木と人間との相違は一体どうして起こるのか、これが久しく私の念頭から離れない疑問でありました。もっとも、同じ七、八十才とはいっても人間は
寿命の終りに近い老人であるのに木のほうはその寿命からいうとまだ青年の年齢であって、これを対等に比較するのはおかしい、という異論はありましょう、しかし木がその寿命に近い三、四百年または千年迄生き延びた姿を考えると、その木は風格を通り越して霊気を帯びた神木の境に達し人間との差は益々開くばかりでしょう。
そこでこの疑問を解くために、とに角木に関する本をあれこれ読んでみましたがこの疑問に答えてくれる本は見当りませんでした。ただ大変面白く、また教えられることの多かった本はやはり、長年法隆寺改修や薬師寺金堂再建に当られた宮大工棟梁西岡常一氏と建築工学の専門家小原千葉大教授の共著になる『法隆寺を支えた木』という本と、幸田文さんの『木』という随筆集の二著でありました。前者では法隆寺の樹齢二千年の檜の柱は今でもほんの二、三ミリ鉋をかけると赤褐色の生き生きとした木肌が現われ檜特有の芳香が漂い出すとか、軒を支える構架材の垂木の檜が屋根の重みで曲ってたれ下っていたのが修理のため瓦や屋根土を降ろしたところ二、三日でその曲りが元の姿に戻ったとか、『木は生きている』という棟梁の話にいたく感銘を覚えましたし、また千三百年経った現在の法隆寺の檜材の強さは創建当時と殆ど同じであることを材料科学的に立証された小原教授の話なども想像を超えたおどろきでありました。また後者の幸田さんの本は、木に対する愛情あふれる見事な随筆集で、風で倒れた蝦夷松の大木の上に、その朽ちた幹を栄養源にして蝦夷松の種子が生い育ち、一列に並んで成長して蝦夷松林の再生が行われるという大自然の霊妙な運行の話など考えさせられることの多い本でありました。しかしこの両著とも、こと『木の風格』のことになりますとあまり参考にはなりませんでした。
ところで或時ふと思いついたのが『生物学』のことであります。木は植物であり人間は動物である、植物と動物はどこがどう違うのか、その辺に私の疑問を解く鍵が見出せそうに思えたのです。そこで早速中学卒業以来何十年ぶりかに『基礎生物学』という本を買い求め、ついでにちょっと目にとまったラリソン・カドモアという人の『生きているとはどういうことか』という訳本を一緒に買って来て読んでみました。この二冊の本から教わったのは、これは全くの初歩的常識なのでしょうけれども、植物と動物には根本的な違いがある、それは植物が独立栄養生物であるのに対し動物は従属栄養生物である、ということでした。つまり地球上の緑色植物は太陽の光エネルギーを吸収し、光合成によって炭酸ガスと水とから糖や澱粉などの炭水化物を合成し、自らの成育に必要な栄養を自給することが出来るのに対し、動物はそういった自給能力がなく、成長した植物をとって食べるかまたは植物を食べて成長した動物をとって食べるかしなければ成長出来ない、というのです。どうして生物が植物と動物に分かれるのか、その辺のむずかしいことは分かりませんが、その生物が『非植物』−動物はその代表ですがーと決まったときその生物は殺戮、捕食の運命を背負ったことになるのだそうで、植物以外の生きものは、自分で栄養を賄うことが出来ず、非植物すなわち動物は宿命として誰かを殺すか、誰かの厄介になるかしなければ死ぬしかないというのです。更に地球上の生物は凡ゆる面で植物のおかげを被っているようです。植物は太陽光で炭水化物を作ってくれるだけでなく、われわれ自身がつくり出す毒性排泄物即ち炭酸ガスを消化して酸素を作って呼吸を可能にしてくれますし、生命維持に不可欠の蛋白質やビタミンも元をただせば殆ど植物由来のものだということであります。
私は以上の生物に関する記述を読んで、これはかねて私が疑問として来た『木の風格』の由来に多分に関係するのではなかろうかと、ひそかに前途に光明を見出したような気がしたのであります。しかし『生物』の本には、光合成は陸上の植物だけでなく海中の各種藻類や浮遊単細胞生物も行っていて、量的にはその方が陸上の合成よりむしろ多いとも書いてあります。私は木が他者を殺したりすることなく、自ら自分の栄養を賄って独立自存しているだけでなく、動物をはじめとする非植物に大きな恩恵を与えているところに『木の風格』の根源があるのではないか、ひそかに推理をめぐらせていたのですが、海中の浮遊単細胞生物も木と同じように光合成をやっているということに
なると、私の推理もいささか動揺をまぬかれず、『風格』問題は依然として解明されそうにありません。
昭和十二年卒
イギリスのエリザベス女王が「一九九二年は本当にひどい年でした。」と言ったとか。我々にとっても昨年は悲しい年だった。正月早々高岩君が鬼籍に入り、二月には田中新市、暮れには古味の両君が逝去した。一挙に東京支部全員の一割が欠けた訳だ。古希を過ぎてからの坂はなかなか厳しい。それだけに昨年の海の中道ホテルの学年大会は思い出に残る。今年は五月名古屋だ。一度一度を大切にしたいもの。 (片桐貞夫)
昭和十三年卒
修猷五十星会(東京支部)会員数は、現在二十九名。昨年も昼食会を高村君の配慮により隔月に開催。十一月の定例会は青山会館で一夕の宴を催して旧交を暖めた。各会員は息災延命に努めて居られる模様で、極めて元気である。特に入院療養された諸君が見事に社会復帰された精神力は驚嘆に値する。しかし、平成三年十二月広橋勉君が逝去、平成四年五月江嶋重治君が、八月に進藤茂隆、永島忠郎の両君が逝去された。心からご冥福を祈る。(小川浩正)
昭和十四年卒
同期の皆さんお元気ですか。今年の定例懇親会は九月十三日(新橋あかね)、ゴルフ会は四月二十二日(大宮国際CC)及び十一月の二回を予定しています。詳細は追而連絡しますが、お互いに元気で再会するのを楽しみにしていますから、多数の参加を期待しています。
昨年、四月に中島元巳君、九月に山崎辰次郎君が亡くなられました。元気だった両君の生前の面影を偲び、心からご冥福を祈ります。(野村俊雄)
昭和十七年卒 いそしみ会
平成四年は我々の学年にとって卒業五十周年の記念すべき年であり、一年中いそしみ会で明け暮れたような気がする。
五月の福岡の五十周年記念同窓会には百名以上が参集し、盛会であった。国際情勢緊迫で中止になった修学旅行の代りに、九月末に関西地区の記念行事として伊勢旅行が企画された。福岡、大阪に負けるなと知恵を絞った東京の記念行事は、十一月同窓会当日の皇居参観である。福岡からも多数の参加があり賑かな集いになった。
伊勢神宮、二重橋と、この一年を通して我々は正しく戦中派であることを再認識した。
人生五十年の時代に生れ、戦争を体験した同級生の三分の二は卒業五十年をクリアーした。今後は五十周年のテーマ『二十一世紀をみんなで元気に迎えよう』の実践あるのみである。(君島芳郎)
卒業50周年の記念に
昭和十九年卒
平成四年度の東京修猷五十六会は東京近辺在住の四十三名。
一月稲富抱一君、八月には田中英夫君が病魔に侵され、他界されました。誠に残念なことでありました。
本年はまた、永年勤めた会社を退職した者(九名)が多く、第二の人生に向かって充電中が目立ちます。
同窓会は三月八日、十一月十一日の二回ふくおか会館で開催しましたが、十一月の会には佐賀在の百崎素弘君(多久市長)、国武隼人君(大同鋼板)が初参加され大いに盛上がりました。
平成六年には修猷館卒業五十年目に当りますので、福岡の幹事と連絡を密にし、盛大なる会にしたいものであります。(毛利昴志)
昭和二十年(四)卒
@東京践修会、五月九日半蔵門福岡会館で開催。家族同伴多数。福岡、大阪からも参加あり盛会。
A践修会総会(福岡)、例年通り十一月三日開催。今年は総会前に特別行事として博多湾一周クルージングを楽しみ、大きく変貌した福岡を海から眺める。
B昨秋九州大学学長に就任した和田光史君、五月母校修猷館で記念講演。
C三俣啓一君、不動産管理の近代化貢献の功績により黄綬褒章を春に受章。(野上三男・田中庸夫)
昭和二十三年・二十四年卒
有田誠の死
同級の元民社党県議、有田誠が死んだ。名物男らしく「邪馬台国風雲録」なる小説を執筆中の突然死であった。
同級生等が骨をおって未完のロマンを上下巻の本にした。文中使われる会話は彼がよく使っていた糸島弁であるが、版元では『吉野ヶ里言葉」として紹介している。それだけでも面白い。
東京の本屋には出ていない。彼への追悼の気がある人は、福岡玉屋内修猷六〇会へ申込んで欲しい。
申込先 〒810 福岡市博多区中洲3-7-30 福岡玉屋内修猷六〇会 (二村健次郎)
昭和二十五年卒 二五会
平成四年も三木会と称して毎月第三木曜日に毎回十名前後の同期が集って歓談のひとときを持った。通算三十六回と回を重ねてきた。ゴルフ会も年二回開催している。全員還暦を過ぎて悠々自適の生活をする仲間も増えたが、暮になって木村輝夫、武富礼二の両君が早過ぎる旅立ちをしてしまった。人生八十年の時代に同期の友が帰らぬ人となると言うに言われぬ淋しさと残念さが残る。健康には十分留意して第二の人生とも言えるこれからも元気でいたいものだ。(濱田桂一)
昭和二十七年卒
平成四年三月に卒業四〇周年を迎えた二十七年卒は、六月六日(土)大分県湯布院山水館で記念同窓会を開催。大野、池、田代、佐田、小島、牧野の各先生を囲み、全国各地から大集合の総数約百名。往復のバス旅行は在学中なかった修学旅行気分。永年の波呂喜代子さんの献身に多謝。
東京修猷二七会は、十一月二十八日(土)夕、本郷東大医学図書館食堂(レストラン・モナミ)で開催。山藤馨君、大神浩君の飛び入りで、出席者三十三名。二次会は恒例「二つの部屋」で。(福田純也)修学旅行気分で(卒業40周年)
昭和二十八年卒 東京猷友会
ビジネスに遊びに励んできた二十八年卒のメンバーも五十八才となり、そろそろビジネスの第一線から撤退する状況になりつつあります。東京の同窓会はそれでも常時四十人ほどが出席する楽しい会となっています。
本年は卒業四〇周年を迎えることになり、六月五日(土)に福岡で一泊の盛大な同窓会を開催する予定です。私たちは修猷館が女子にその門戸を開放した二年目の卒業生でもあります。(松尾正弘)
昭和二十九年卒 六八会の近況
そろそろ自由な時間が持てる年代になってきたせいか何かにつけよく集まる。昨年は正月明け早々の新年会に始まり、四月には秋の総会時の料理の試食会と称して集まり、六月の東京修猷会総会後の二次会、七月には秋の旅行会下打ち合わせ食事会。九月には二十名で尾張・美濃に遠征して名古屋在住の四人に福岡からの参加者を交えて大いに盛り上がった。十月の六八会総会は福岡からの参加を加えて四十五名の賑やかな宴。そしてまた、忘年会に新年会と交流は益々深まって行くようである。(川原裕)
昭和三十年卒
どげんしよるかい(会)! の合言葉のもと、六月の総会、一〇月の旅行会で久闊を叙すのを定例としている。尤も毎週の如く臨時集会を開くメンバーも多い。
昨年の旅行会は又々東急の原田兄を煩わし鬼怒川で開催、御上様同伴の参加も次第に増え、益々賑やかになってきた。紅葉狩り、ゴルフ、テニスと夫々に秋の一日を楽しんだ。
現在会員は約百名、第二の職場への転進も増え、帰福組もぼちぼち現れてきた。五年度の幹事は三組の諸姉弟、よろしく。(藤江武久)
平成四年七月四、五日の両日、在阪同期生のお世話で、卒業三十五周年行事が大阪で盛大に開催されました。初日は懇親会を東洋ホテルで、二次会は大阪市内の数会場で、二日目はバス二台を連ねて大和路をたずね、法隆寺、東大寺他の見学を行いました。尾嶋先生ご夫妻、小柳先生をはじめ各地より一〇〇余名の参加があり、楽しく旧交を温めました。
昨年の移動(判明分)は次の通りです。転入は小野旻、田中敏裕、松岡龍男、吉村剛太郎。転出は北川俊光、柴田克也、村上光一の各君でした。他に洩れがありましたらご一報下さい。(国分英臣)
楽しかった35周年行事
昭和三十三年卒
三三会のメンバーは、それぞれの職場のキーパースンとして、平成不況のなか健閾しているようだ。六月の総会の時は、例によって松井君、川野さんの両名が福岡から駆け付けてくれた。総会の時以外にも声を掛け合って集まろうぜ、というわけでさる十一月某日、香崎温子さんの発案で、連絡がついた範囲で有志七人が新橋の有薫に集まり歓談した。懐具合は皆似たり寄ったり、残りの頭髪の資産格差はかなり有る。しかし青春の意気は相変わらず高い、というのがその時の個人的印象である。(貫
隆夫)
昭和三十四年卒
暮れの十二月四日に恒例の同期会が開催され、四十六人が集った。
改まっての挨拶は抜きでいきなり、近況等を話し始めるのが通例であるが、今回は「最近、内容が変わったから」と言って名刺を交換するケースが多かった。
言うまでもなく、関連会社等への出向、或は移籍のためである。
我々も「ついにサラリーマン人生の最終区間に入ったな」との感慨を深くした。(水野
務)
昭和三十五年卒
この度福井健二郎が福岡勤務となり、田代信吾が、今田正純、羽立教江と共に三五東会の世話係に。福井もそうだったが、田代、今田も出張が多く、不行届きの懸念あり。ご支援をよろしくお願いします。ちなみに今田は九ヵ月で四七の全都道府県を巡るという状態。そんな訳で九二年は三五東会開催せず、寂しいとの声あり。久し振りに九三年一月二二日、新宿住友クラブで開催、出席二五名。お互い五十才を越えて昔を懐かしむ時期となった。これからは、この会を大事にして新たな活力としたい。(今田正純)
昭和三十六年卒 三六会(みろくかい)便り
今年度の三六会の活動は、九月にゴルフコンペを行い、総勢十三名の参加でした。
十一月には近畿修猷会の総会の幹事年のため東京から神崎君と私が応援に駆け付けました。さすが三六会のメンバー、盛大な会として盛り上がっていました。
さて、新年会(一月三十日)は久しぶりに四十名のメンバーを集め江戸の文化を滴喫し落語を味わい、笑い転げた後上野の伊豆栄にて宴会となり、近畿をはじめ各地からの参加者も交じって、本当に盛り上がりました。
もう五十代に突入した世代としては、これから十年を意義あるものにするためには、この会に参加し大いに樂しむ事が、その先の人生を意義あるものとする一里塚だと思っています。
人生大いに楽しみましょう。(井島 稔)
昭和三十七年卒
昭和三十七年卒業の三七会は、卒業三〇周年を記念して、在学中には実現できなかった修学旅行を行った。福岡本部の企画と金沢で旅行会社を営む仲間の肝煎りで、十一月二十一日、石川県加賀山代温泉に、東京支部からの七名を含む三十八名が参集。温泉にゆったりとつかった後の宴会は博多弁一色の昔話。夜半まで賑わった。翌日は、ゴルフするものと別れ、バスツアー組は永平寺や東尋坊などと訪ねてまわり、酒ぴたりの親父の修学旅行を楽しんだ。(高木卯三治)
昭和三十八年卒
同窓会総会(福岡)に感謝!
当番幹事の三八会としては全体の動員数もさる事ながら、先ずは当番学年の大動員が先決と一年がかりの運動の結果、予想もしなかった一六〇人が結集(全体では八一六人)。何れも記録更新と思いますが、それより一年間の活動を通じてお互いの友情の輪が一段と深まり、数多くの新しい友蓬ができた事、同窓会の御陰と感謝しています。今年は卒業三〇周年。更に修猷魂を発揮せんと計画中です。三八会代表・村瀬伸ニ(福岡)
昭和三十九年卒
東京昭三九会の皆さんお元気ですか。高校を卒業してから三十年近くたち、時の流れの速さを感じます。
さて、今年は昭三九会が「修猷館同窓会総会」(於福岡)の幹事学年となっています。福岡では末永浩毅君を委員長に着々と準備が進められています。総会は、五月二十八日(金)一八時三〇分より、ホテルニューオータニ博多にて。東京からも大勢で参加したいと思います。ぜひ御予定下さい。それでは、福岡でお会いしましょう。(久保田康史)
昭和四十年卒 しっとう会
昨年は平成三年の総会運営の疲れからか、同期の会合が少ない年でした。五月に、鶴木賢治さんが、ヨット遊びの会を横浜で催して十数名の参加がありました。また、十一月末の忘年会には二十数名の参加がありました。今年の幹事は、五組の吉田貞之、渡辺史大のお二人です。昨年の異動、鳴川博之→名古屋、斉田秀実→福岡、清田秀昌→鹿児島、前崎喬→横須賀、宮本雄二→日本(東京)、近藤重克→大阪(予定)。(田中俊雄)
昭和四十一年卒
東京修猷会平成四年度総会を幹事担当学年として何とか乗り切った昭和四十一年卒ですが、それなりの成功感をじっくり味わう間もなく新しい年を迎えました。
昨年十一月二十八日、恒例の東京よいよい会忘年会を開催しましたが、総会運営期間を通してより一層強まった一体感のためか、例年にない盛上りを見せました。特に今回は、強力な女性軍の指揮下、従来の宴会スタイルから今風の立食ビュッフェへと変身を遂げたため、改めて多くの同窓生とコミュニケーションを深めることができました。前回までの忘年会は総会に向けてのマイルストーン的意味合いが強かったと言えますが、総会を終えて、今回が正式な第一回目であるという意識を深めつつ盛況のうちに再会を約束した次第です。既に今年の忘年会が待ち遠しいこの頃です。(工藤安信)
昭和四十二年卒
いよいよ今年は我々に東京修猷会総会運営の大任が廻ってきました。例年の幹事学年に比べ出足が遅いと、先輩各位に御心配をおかけした時期もありましたが、昨年六月以降精力的に準備を進めてきています。
従来活動の少なかった我々ですが「東京一九猷会」を結成し、今回の準備を通じ同期会を充実していこうと考えています。
何とか楽しく意義ある総会にしたいと考えていますので、各学年の皆様の御協力、多数の御参加をお願いします。(土井芳夫)
昭和四十三年卒 東京四三会(よさんかい)だより
修猷館を卒業して、はや二十五年。来年はいよいよ東京修猷会総会の幹事年。という訳で、我々東京四三会のメンバーも昨年九月十二日に「東京四三会全員集合」を盛大に開催。福岡の四三会本部からも来賓を迎え、和やかな談笑の中から次第に盛リ上がる幹事年への意気込み。各クラス幹事からの力強い物心両面からの支援の決意表明。我々四三年卒、「自ら楽しむ東京修猷会総会」日指して、着々と準備を開始したことをまずは報告致します。(福嶋慎一)
昭和四十四年卒 獅子の会
昨年十一月十一日(水)定例の二水会を盛大に開催。この会は五月、十一月の第二水曜日に集う獅子達の会であります。
集える健児(残念ながら女性の姿見えず)は、真に各分野の最前線で活躍中の面々、お互いの仕事、家庭(女房のことより子供のこと)の近況報告であっと言う間に時は過ぎ、神田での二次会へ。大手証券会社の塚越君。この証券不況にかかわらずの出席と、この時代に負けていない顔付と余裕は立派だとの声多数でした。心の奥底で我々を支える「ある魂」「修猷で育まれた確かなもの」は、我々の永続的な原動力でしょう。昔の秀才もワルソウも一つに融けあい楽しい会でした。次の例会が待ち遠しい早春の一日です。皆のご参集楽しみにしています。(伊佐
裕)
’92 総会報告 幹事長 長野倬士
平成四年度の東京修猷会総会は、六月六日に昭和四十一年卒の諸君が幹事学年となり、昨年までのグランドパレスとは趣向をかえて、昨今若者の間で話題の、舞浜のディズニーランド近くの「東京ベイホテル東急」で開催されました。
年配の会員の方々には若干馴染みの薄い場所だったかと思われますが、「話は聞いていたけど来るのは初めて」という人もかなりいた様子で、総会後にホテル内を見物してまわる姿も数多く見受けられました。ただ、残念ながら、場所が違ったせいか、出席者数は例年の数字に迄は達しませんでした。
総会は、例年通り、森田澄夫君(昭和四十一年卒)の指揮による館歌斉唱で始まり、有吉会長の挨拶、宮野顧問の発声による物故者への黙祷がなされ、次いで事業並びに決算報告、事業計画と予算案が、いずれも満場一致で承認されました。
福岡からは、吉田館長、本部の平田常任幹事をはじめ多数の来賓、恩師の御出席もいただきました。
総会は、合唱部OBによる修猷賛歌の歌声の流れる中、稲富、奥田義郎、河原、渡辺暢平、北島康令の各先生を囲んでの楽しい一時が持たれました。
実行委員長の高橋章君をはじめ昭和四十一年卒の諸君のおかげで、立派な総会を開くことが出来ました。心から御礼を申し上げたいと思います。
細川護熙氏と二木会 水野 務(S34卒)
東京修猷会二木会も平成四年四月の定例会をもって、第四百回を迎えました。
この記念すべき定例会には七十名を越える会員が参加し、大変盛会でした。
記念講演には同窓生以外からの特別ゲストとして、前熊本県知事の細川護熙氏をお迎えしました。
講演では、これからの日本のありかたについて、細川氏の切々たる思いをお伺いして全員大変感銘を受けました。
細川氏がその直後に日本新党を結成されたことは皆さん良くご存じの通りですが、後から考えると、我々が細川氏のお話を伺った時には既にその準備が進んでいて、第四百回の記念二木会においてその趣意を事前に公開されたことになり、大変意義深い事だと思います。
講演の内容を要約すると、
一、これからの日本は文化立国でなければならない
二、その為には、教育が最も重要
三、その実現を阻む原因は今の日本の官僚制度にある
の三点になります。
細川氏はこれからその理想を実現するために邁進されることと思いますが、我々としても氏のご活躍を期待したいと思います。
二木会
福祉の国のアリス 山内豊徳遺稿集 刊行
環境庁の元企画調整局長の山内豊徳氏の遺稿集「福祉の国のアリス」が故人の三周忌を前に昨年末出版された。山内氏は修猷館、東京大学を卒業後、厚生省へ。障害福祉課長を総て環境庁に移られ、事務次官の呼び声も高かったのであるが、水俣病訴訟の和解問題で奔走中に自ら生命を絶たれた。
氏は学生時代から一貫して福祉・公害行政にかかわってきた人なだけに国と被害者との板ばさみに苦しんでいたと言われているが、遺稿集には日本の福祉行政のあり方を見据えた論文などが納められている。
遺稿集は本のタイトルにもなっている「アリス・ヨハンソン」の名前で日本の福祉行政を論じた諭文や他の専門誌に寄稿された随筆・論文などと学生のころからの詩、短編小説、友人、知人の寄稿からなっている。彼は福祉の原点は福祉を決して「奉仕」に封じ込めてはいけないということを、またこれからの福祉は「人材の養成と技術の向上」が重要だということを訴えており、全編を通して山内氏の福祉に対する真摯な態度、苦しいまでの情熱を傾けていた姿が浮か上がっており読むものを熱くさせる。
卒業生の諸氏にはぜひご一読を願って故人に代わってこれからの日本の福祉行政に熱い眼差しを注いでいって頂きたいと思うものです。(黒宮時代S41卒)
お問い合わせ 八重岳書房 電話03-3268-3567 定価2000円
事務局だより
新執行部が発足して、早いもので丸二年が経とうとしています。平成三年度は、引継ぎ早々にして大幅な赤字予想となり、急遽「二木会会費の値上げ」を行ない、皆様方に大変御迷惑をお掛けしました。結果的には、それにも拘らず、昨年度は、年間で約百万円の赤字を出してしまいました。
東京修猷会の活動は、総会並びに二木会の運営と、会報の発行の三つが柱だと思われます。その中で、「会報の発行」は、同窓会の活動としては極めて有意義なものと思われますが、意外に経資と労力を食うため、今年度から半分の四ページに削減することにしました。悪しからず御了承の程お願いします。
それ以外の収支改善策としては、ひたすら「会員の増強」を図ることにし、しつこくお願いを繰返しました。おかげ様で、今年度は、現時点で既に対前年四割増で過去最高の千四百人を越える方々に会費納入を戴いております。会員の皆様に心より御礼を申し上げる次第です。
それ以外の報告事項としては、前執行部時代に購入したコンピューターが、田中俊雄君や田中まづるちやんの努力によってシステムが完成し、在京同窓生五千五百人の把握、経理処理等に大きな威力を発揮しています。
執行部一同、皆様の御協力を得て、更に楽しい同窓会にすべく努力をするつもりです。今後ともよろしくお願いします。
編集後記
平成五年春、内外激動の時、様々な価値観が交錯しています。喜んだり、呆れたり、腹を立てたり、なるほどと思ったり。淡々と生活するのが難しい時代のようです。(浩)