東京修猷会・会報 第3号 1991年(平成3年)1月1日発行
南アルプス千丈岳
第1面画像
目次 (中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます)
大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭言 | 時移りて | 松尾金蔵東京修猷会長 | S4 |
二期目の出発にあたって | 桑原敬一福岡市長 | S15 | |
国政で活躍する修猷健児 | 本院議員在職二十五年 | 楢崎弥之助衆議院議員 | S13 |
英才 山内豊徳君の死を悼む | 山崎拓衆議院議員 | S30 | |
「土肥隆一と・・・」 | 土肥隆一衆議院議委員 | S33 | |
「皆様あけまして・・・」 | 原田義昭衆議院議員 | S38 | |
追悼 | 地球温暖化防止行動計画にご協力を(遺稿) | 山内豊徳環境庁企画調整局長(当時) | S30 |
昭和三十年卒業代表弔辞 | 伊藤正孝 | S30 | |
温かみのあった山内さん | 中沢郁子、香崎温子 | S29,S33 | |
文化 随想 | 隠れ里に芽吹く福祉施設の文化活動 | 福田廉 | S27 |
1と2の間で | 森田澄夫 | S42 | |
中京修猷会だより | 「昨年中京修猷会は・・」 | 日根野穣中京修猷会幹事長 | S26 |
’90総会報告 | 「平成2年6月16日・・」 | 淵上貴之東京修猷会幹事長 | S26 |
’91総会へ向けてお願い | 「在学時代の写真や・・」 | 倉本義介 | S40 |
二木会報告 | 1990年1,2,3,4,5,7,9,10,11の各月 | 二木会事務局 | --- |
学年だより | S12〜H2卒の短信 | 各学年幹事 | --- |
海外だより | バグダッドの明暗 | 伊藤正孝 | S30 |
米国出張30回の目 | 福山忠彦 | S38 | |
訃報 | トーキー 林秀武先生逝く | 東京修猷会事務局 | --- |
同窓会からお知らせ | 修猷館同窓会よりのお知らせ | 修猷館同窓会 | --- |
事務局だより | 東京修猷会事務局 | --- | |
編集後記 | 中尾大三 会報担当 | S30 |
撮影場所:南アルプス千丈岳、撮影時間:11月上旬午前6時、写真提供:田中武雄氏(静岡市)
平成三年を迎え、顧みて昨年は内外共に、大変なことばかりでした。世界の枠組みが変わり、日本は対応に困惑し、変動は急ピッチでさらに不透明です。昔、大正末から昭和初、私の修猷館の頃はのんびりしていたように思いますが、当時は当時なりに大変な時代だったに違いありません。しかし私たちは、概ね素朴な質実剛健の生徒だったようです。
四キロ歩いての通学の道草は別として、背振山、雷山等々、私たちはよく山登りをしました。故清水浩君持参の地図が頼りです。夏休みには甘木から入って英彦山を越え、耶馬渓を見て中津に出るという北九州横断の長旅もしました。米と塩と飯盒(野営で飯が炊けます)携行の無銭旅行。野宿で最大の敵は蚊群。英彦山中では夜の道に迷い、やっとの思いでした。
この二人は又、鉄棒と木馬跳びに熱中して、放課後の校庭で日暮れるまでがんばっていました。柔道も盛んで早朝の寒稽古に励み、夏は百道の砂浜で泳ぎました。当然ながら上級生に対する敬礼は厳しく、その指導による応援歌訓練は、校庭でなければ百道松原でした。
学業にも一応励みましたが、国語には副読本が併用されて、私たちを文学少年に誘うものがあったのでしょう。在学中に亡くなった泉亨二君は漱石に傾倒し「世の中はうまくできてるなあ」と独言が彼の口癖でした。私も図書館通いをして文学書なるものに熱をあげました。しかしわたしたち仲間では、それは何となく照れくさいことのようで、互いに口にすることは少なかったようです。九州人は大体、照れ屋だと言われています。
こんな素朴な修猷館生徒時代がありましたが、以来幾星霜、時代の変転は私たちそれぞれ、その人をほん弄するように過ぎてきました。そしてその間の価値観やイデオロギーや体制の変遷も、今となっては何やら空しいような感慨さえあります。
昨年師走に入って私たちは、山内豊徳さんのいたましい死去にあいました。真相は知りませんが、謹んで山内さんのご冥福を祈るのみです。山内さんの修猷館時代は、文学好きの心やさしい生徒だったと聞きましたが、やはり九州人らしい照れ屋だったのでしょうか。
福岡市長 桑原敬一
私は、この度の市長選挙で市民の多数の支援と支持をいただき、引き続き、福岡市政を担当することになりました。今回の選挙期間中、足に豆をつくり、スニーカーが草臥れるまで市内を隈無く巡りました。その中で、わがふるさと福岡市の素晴らしさを再認識するとともに「福岡市を住みよいまちにしてほしい」との市民の期待感を強く感じました。又、市民がそれぞれ高齢化社会への不安を抱いていることがひしひしと伝わり、福祉対策の重要性を改めて感じさせられました。
一期目はシーサイドももちや市街地整備、地下鉄や高速道路の建設など都市の活力づくりに努め、ハード面の整備はほぼ緒についたと思っております。二期目は、健康・福祉対策に目を向けたいと考えております。「ハードからソフトへ」つまり「物づくりから人づくり」へ軸足を移すことです。「人生八十歳」を健康に生きるための「健康づくりシステム」を二十一世紀の入口までには構築したいと考えています。又、高齢化社会は“モデルなき社会”といわれております。
当面、手探りになると思いますが、まず、健康づくり、そして不幸にして寝たきりになった場合は、自宅で安心して生活できるよう市民参加型の新しい地域福祉システムを完成させ、全国的にも高レベルの福祉都市づくりをしたいと考えております。
更に、国際化は時代の要請、何としても進めなければなりません。国際化によって人、物、情報の交流や、異文化との接触が増え市民生活に刺激と活力を生み出し、福岡市の知名度もあがります。経済交流だけでなく、文化、学術交流も大切ですが、当面は一九九五年開催予定のユニバーシアード大会の成功に全力を尽くしたいと考えています。
以上のように、私は健康で思いやりのある人づくり・地域づくり、海外に開かれたアジアの交流拠点都市づくりに全力を注いで参りたいと考えております。東京修猷会の会員の皆様におかれましてもふるさと福岡市発展のために、ご指導、ご鞭撻をお願い致します。
衆議院議員 楢崎弥之助
本院議員として在職二十五年に当たり、院議をもって永年在職の表彰をいただきました。まことに光栄のいたり、感激の極みであります。ここに謹んで、遥かふるさとの皆さん、並びにこれまで陰に陽に私を支えていただきました沢山の方々に心からお礼を申し上げたいと存じます。
私の学びました中学校は、福岡県立修猷館という古い歴史をもった学校でありました。しかし皆さん方にとっても先輩議員でありますあの東条軍閥に抗して自刃した中野正剛、落日燃ゆの悲劇の宰相、広田弘毅、ラントウの急務と呼んで総理、総裁の座につく寸前に惜しくも倒れました緒方竹虎、日本社会党創設の重鎮、三輪壽壯、これすべてわが修猷館の私の先輩でもあります。
楢崎弥之助、非才にして、とてもこれら大先輩の足元に及ぶべくもありませんが、ただ一つ、反骨の精神、反権力の気風だけは学びとってきたつもりであります。そして義理と人情にあつい九州男子の情熱と純粋さだけは失わないように自らを厳しく律してきたつもりであります。
昭和二十年十一月二日、あの敗戦の瓦礫の中に、日比谷公会堂で産声をあげました、日本社会党の結党に参加して政治運動に入って以来すでに四十三年間、その間、昭和三十五年秋、浅沼稲次郎委員長の屍をのりこえて本院に議席をえましてからも二十五年間、思えば、はるばる遠くへきたもんだという感慨で胸が一杯でございます。徒らに試行錯誤の年輪を重ね、悔い多き風雪の日々を送ってまいりました。
この四半世紀、一体お前はは何をえたかと問われるならば、私は何のためらいもなく、即座に、それは人の心でありましたと答えるでありましょう。そして、いま一つ、党派をこえて、よき先輩すばらしい仲間にめぐり会えたことだと答えるでありましょう。
風誘うままに花は散り、雲ながるるままに人は去る。沢山のすばらしい出会いがありました。そして哀しい別れがありました。
もしこれから先、自らの生きる証しをもとめるものがあるとすれば、それは日本の政治活性化のため、自民党一党支配に替わりうる新しい政治勢力の結集以外にはないと思い到っております。
かの動乱の幕末に薩長土肥四藩の連合を果たして維新の夜明けに命を賭けた土佐の下級藩士、坂本竜馬の生きざまに、いま私は限りない政治へのロマンをかきたて、この命生きる限り、最期まで、お努めを果たしてまいる存念でございます。
今後とも皆さんの一層のご教導をお願い申し上げます。
衆議院議員 山崎拓
旧年(一九九〇年)は、政治的に見ると内外共に激動の年であったが、身の回りの出来事として最大の痛恨事は、修猷同期で出色の英才、環境庁企画調整局長でもあった山内豊徳君が急死したことである。かれは本年夏には事務次官昇任が約束されていたので官僚としてトップの座を極めるはずだった。折悪しく水俣病患者補償裁判をめぐり国が和解に応じるかどうかの係争案件で、国側の当事者として矢面に立たされており、積み重なる過労と、深刻な精神的苦悩の末、死を選んだものと思われる、彼ほどの聡明さといつも微笑みを絶やさぬ人柄からすると、信じ難い出来事であった。それだけに彼がいかに良心的な人間であったかが推し量られ、彼を死に追いやった何ものかに対し義憤めいたものをおぼえる人が多かった。
私たちは昭和二十七年四月修猷館に入学、一年八組に配置された。当初席の位置は五十音順で決められていたので、私の隣席ははからずも同じヤ行の山内豊徳君だった。そして彼は担任の石井先生の指名で級長に選ばれた。何でも入学試験の最優秀成績者だからという理由のようであった。そのことは直ちに立証された。五月の全校テストで一番になったからである。その後も卒業する迄ほとんど常にトップの座を守り続け、ストレートで東大法学部に入学し、さらに国家公務員上級職試験に合格して厚生省に入ったという経歴の持ち主である。
そのような彼に対し私は正直コンプレックスを抱いていたが、彼にも弱点はあった。膝の骨膜炎を患っているとかで跳んだり走ったりする運動ができなかったことである。その点私も集眼で球技は出来なかったが、柔道に活路を見出し連日猛稽古で心身を鍛えることができた。修猷館の伝統的イズムとして“文武両道”を挙げる人が多いが、彼が文、私が武で二人合わせて一人前とひそかに思ったりしていた。
昭和三十四年厚生省に入った彼は、医務局総務課を振り出しに水を得た魚の如く活躍し、順調に出世していった。私は四十七年十二月衆議院議員に初当選したが、その頃彼は官界の登竜門とされている大臣秘書官に抜てきされた。大臣は斉藤邦吉氏でたまたま私の父の一高時代の同級生だったという縁もあり、しばしば厚生大臣室にお邪魔した。爾来、選挙区からの厚生省関係の陳情事はことごとくと言っていいほど彼が捌いてくれたものである。そして五十三年十一月私は幸運にも厚生政務次官に就任し、修猷以来再び同じ釜の飯を喰う間柄となった。私が在籍した一年近くの間に彼は社会局施設課長、同保護課長、環衛局企画課長と横並びながら三段飛びをした。その間彼は文字通り私の保護者であり、省内の人脈づくりや選挙区へのPRなど細かい点まで気を配ってくれた。
その後彼は人事課長や大臣官房審議官歴任後六十一年九月環境庁官房長へ転出した。思えばこれが運命の岐路となった。私が今もって慚愧の念にたえないのは、六十三年末竹下内閣改造の際一旦環境庁長官の声がかかったことがあったが、エネルギー問題をライフワークの一つにしている故を以って躊躇している間に、初入閣の機会を逸したことである。そのことが新聞に出たので自然保護局長に昇任していた彼のところに釈明に行ったことがあったが、ナイーブな彼の心を傷つけたのかもしれない。
誰にも優しかった彼が、「地球に優しく」という合言葉のもとに地球環境問題に命がけで取り組んでいたことを肝に命じ、ここに当問題を新しいライフワークとすることをお誓いし追悼の誠を捧げたい。
土肥隆一と申します。昭和三十三年卒、つまり「さんざん会」と言っています。誰が付けたのか実に皮肉な名前です。
先日、議員会館のエレベーターの中で山崎拓先生(衆議院議院・福岡一区)にお会いし、「実は・・・」と名乗りを挙げた次第です。早速先生は東京修猷会にご連絡下さったのであります。大先輩の山崎先生にはこれから政治のABCを教えていただかなければなりません。
修猷館という学校は単なるノスタルジア以上に独特の感慨を学生に覚えさせるのではないでしょうか。それは、ある種のこころの痛みといったらいいでしょうか。西新町界隈もそして旧電車道から見る母校の建物を見るとき、今も胸の疼きを忘れさせないようです。それは、私の独自の体験かもしれませんが、やがて私はキリスト教へと傾斜し、ついには牧師の道を歩むことになったのです。爾来今日まで二十三年間牧師の生活を続けていたのに、昨年二月十八日突然国会議員に変身するわけです。その話も一月十二日に舞い込んで来て、決断した日も結婚式の司会をやりながら決めたのですから、このカップルには大変申し訳なく思っております。
ただし、教会の仕事と共に福祉をかなり活発にやっておりまして、民間サイドの障害者、児童、老人福祉施設作り、そして在宅老人の家事援助サービス事業などを手掛けてまいりました。選挙の最中も精神薄弱者更正施設(六十名入居)を建設中で、昨年四月一日に無事オープンすることが出来、今は国会活動に専念する意味で直接施設運営にはたずさわらず法人の方のお手伝いをしております。
従って、政治家を志すといった余裕はなく、後で、国会へ来まして、余りの生活の変化、特に国会の独特の習慣から議員像に至るまですべてに違和感を覚えしばらくは後悔の日々でした。しかし、私を選んで下さった有権者の皆様のことを思うと一人落ち込んでおるわけにもいかず、今日まで歩んでまいりました。
少しは慣れて来たのか余裕も出て来たのですが、ここでこそ大いに謙虚になり、生涯が初心の思いで日常の忙しい生活に明け暮れております。福祉を中心に来ましたので、この機会を天が与えた私の仕事と考え、大いに働かせていただきたいと考えているところであります。
(神奈川二区、川崎市・三浦半島選出)
皆様あけましておめでとうございます。
昨年は皆様の暖かいご支援を受け、神奈川二区(川崎市、三浦半島)から二度目の挑戦で、衆議院議員に当選することができました。戦前の不利な予想をくつがえした予想外の成績を挙げることができましたのも、故郷の皆様の強力な応援のおかげと心から感謝いたしております。
私は福岡に生れ、炭鉱の町に育ち、昭和35年に修猷館に入学致しましたが、一年半程で父の転勤する炭鉱の閉山もあり、川崎市に移りました。通産省に入省したのも炭鉱の悲劇が毎日のようにくり返されるを見て育ち、何とかエネルギー政策を通して、人間の不幸を取り除くことができないかと考えたからです。
通産省では、渡辺美智雄先生の通産大臣政務秘書官を拝命したのが大きな転機となり、渡辺先生の政治に対する厳しい姿勢、ものの見方、考え方に教えられ、自然と政治家への道を志すようになったと思います。私は文字通り徒手空挙の身で立候補し、周囲の皆様には大変なご迷惑をおかけしたわけですが、政治とはつまるところ弱い立場に立つ人々の苦しみをわが心の痛みとして社会正義の実現を目指す、ということにつきるかと思います。今後共皆様のご協力を得て国際社会に通用する政治家として活躍できるよう頑張りつづける覚悟でございますので何卒よろしくお願い申し上げます。最後に修猷館同窓の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げ、ごあいさつとさせていただきます。
人間活動によって排出される炭酸ガスによる地球温暖化問題は、人類の生存基盤に重大な影響をもたらす深刻な問題であり、将来の世代に、豊かな地球環境を引き継ぐため、世界各国が協調してできることから着実に推進して行くことが求められています。このため、炭酸ガスをはじめとする温室効果ガスの抑制策について国際的な枠組を定める条約の検討さえ進められているのです。
我が国としても、国際的地位にふさわしい責任と役割を果たしていくことが求められており、今後二十年間を見通して日本の取り組みの基本方針を明らかにするため、「地球温暖化防止行動計画」が昨秋十月二十三日に決定されました。
行動計画では、二酸化炭素の排出抑制の目標として、計画に盛り込まれた広範な対策を着実に推進して、一人当たりの排出量を二〇〇〇年度以降概ね一九九〇レベル(約二・五トン)で安定化し、更に、革新的技術開発等により、国全体の排出総量についてもこれを二〇〇〇年以降概ね一九九〇レベルで安定化する、との二項目を掲げています。
このような目標を達成するため、今後取り組むべく対策として、都市、地域の構造、交通体系、エネルギー供給構造等広範な分野での省エネや自然エネルギーの利用促進等様々な二酸化炭素排出抑制のための対策を挙げています。また、ごみの埋め立て等から生じるメタンなど二酸化炭素以外の温室効果ガスの抑制対策、二酸化炭素を吸収する森林等の緑の保全、地球温暖化防止に資する技術の開発、熱帯林の保全をはじめとする開発途上国に対する国際協力等地球温暖化防止のための様々な対策が盛り込まれています。
これらの対策は、今後二十年間かけて実施して行くものであり、直ちに国民生活に大きな影響をもたらすものではないかも知れません。
しかしながら、地球温暖化は、エネルギーを大量に消費している私達の毎日の生活の在り方そのものに深く関わっており、政府や企業の取組とともに家庭や地域といった足元から着実に取り組んで行かなければ解決できない問題です。
このような観点から、行動計画においてもリサイクルの推進や、過剰包装、自動販売機の乱立、ダイレクトメールの氾濫などの見直し、環境マークの活用による二酸化炭素の排出の少ない製品の普及、冷暖房温度の適正化等二酸化炭素の排出の少ない、地球にやさしいライフスタイルの実現を位置づけています。
行動計画の目標達成に向けて、国民の皆様一人ひとりが地球環境との関わりを自覚し、家庭や職場で身近な行動に結びつけていただくようご理解とご協力をお願いする次第です。
遠い窓
わたしの心にある遠い窓
いつかはその窓から
そとを眺めてみようと思ういつかは・・・と
さびしい言葉だがあヽ
遠い窓
山内君
君は「おい そんな古い詩は公表するな」とにが笑いしているかもしれませんね。でも君は、高校時代に創ったこの詩を愛していて、知子さんに読んで聞かせたというではありませんか。遠い窓というのは、若かりしころ君の心に住んでいたあこがれでしょう。果たして君は、死ぬ前に遠い窓にたどりついたのだろうか。その窓からそとを眺めただろうか。私はそうではなかったのではないかと思います。窓の外にあったはずのやすらぎ、信頼、そういったものを発見する前に赴ってしまったような気がします。山内君
高級官僚として、君は人も羨む栄達栄進の道を歩んだ。けれども官僚であると同時に、純粋な一人の人間であろうとした。このことは、君の人生をとても険しいものにしたと思う。君の人生は、そのスタートからして険しかった。まだ幼かったころ、お父さんは中国戦線で亡くなられた。お母さんは君から去って行った。君は一人で人生と闘わねばならなかった。もちろん、おじいさんや伯母さんのお力添えはあったでしょう。それでも君は、少年のころから一人で身じまいをする、できるだけつましく暮らす、頼れるのは自分一人だと決めていた。
山内君
大学を出ると君は進んで厚生省に入省した。君自信が恵まれない、なんの後盾もない弱者だったから、弱者とともに生きるというのが、ごく自然な選択だった。埼玉県庁にいたころの君が、障害者について、部落対策について、いきいきと語っていたのを思い出します。君が弱者を支えて生きる、弱者に支えられて君が生きる、そんな人生の充実ぶりを君はいきいきと語っていた。君は眩しいほど輝いていた。私たち同級生は、君を祝福し、同時に日本の前途に明るいものを感じていた。
山内君
いま私は怒っています。悲しむよりも怒っています。あんなに輝いていた君を、どん底に突き落としたのは何だったのか、職場にもっと支えてくれる人はいなかったのか、と怒っています。同時に君にも怒っています。もっと官僚に徹して生きる手はなかったのだとうかと。人のためだけに生きるのではなくて、自分のためにも生きることはできなかったのかと、「そんな生き方は僕にはとてもできなかったよ」と君は言うでしょうね。水俣病裁判をめぐって君が悩んでいたころ、私はイラクにいました。だから君の苦境を知らなかった。けれども同級生たちは君が政府を代表して記者会見をしているのをテレビで見て、「あヽ山内は随分無理をしているな。自分の信念や人柄とは違ったことを言わされているな」と危ないものを感じていたそうです。
山内君
君は一ヶ月近くも、満足に眠っていなかったそうですね。ある朝、出勤しようとする君に、知子さんが「そんなに命がけでやらなきゃいけない仕事なの」と尋ねたそうですね。君は「患者さんたちが“私たちは命をかけています”って言うんだよ」と答えた。弱者を支えるのを生き甲斐にしていた君が、最期は弱者と対立する立場に追い込まれた。どんなに苦しかったでしょう。
でも山内君
うれしいことがひとつあります。水俣病患者が「山内さんには他の人にはない何かがあった。私たちはそれを感じていた」と話したと、今朝聞きました。患者さんたちが感じとったのは、君の根本的な優しさであり、奥底で光っていた君の高潔さであったと、私は信じます。厚生省や環境庁を担当している記者たちの間で、君の誠実さや見識は定評がありました。私たちは君が同級生であることを誇りにしていました。
山内君
高校生のとき君は「花園のある風景」という極めて暗示的な作品を書いた。老人と幼い女の子が力を合わせて暮らしていた。「山本老人はときどき子供のように声を出して泣くことがあった」という書き出しを、私は「君の幼かったころの心象風景に違いない」と感じていました。やがて女の子は金持ちの家の犬に追われ、ミゾに落ちて死ぬ。老人は失踪してしまう。しかし老人が残した花園は、いつまでも人々を慰めた。というものでした。
山内君
国家機構の壁、法律の壁、予算の壁。いろいろな壁に阻まれて、君は逝ってしまった。しかし君も私たちに花園を遺してくれました。それは君の心の中に香っていた花園です。君が愛した知子さんは、君を夫に持ったことを誇りとしていることと思います。知香子さんと美香子さんは、君を父親に持ったことを誇りとしていると思います。そして私たち同級生は、知子さん、知香子さん、美香子さんを支えながら生きようと思います。
さようなら。山内君。
修猷館昭和三十年卒業代表
伊藤正孝温かみのあった山内さん 中沢郁子(S29卒) 香崎温子(S33卒)
山内さんと初めて顔を合せたのは、六、七年前、私達と一緒に東京修猷会の役員になった時である。私達がご挨拶した折の山内さんの無表情な顔、またそのあと役員数人で会談した時の山内さんが、頭も口も回転が早く一人でまくしたてていたのを憶えている。
でもその後折にふれて顔を合わせるうちに、山内さんは本当は感受性が強くまた温かみのある人であることが判ってきた。その頃私(香崎)が胃の精密検査を受けることになった時、山内さんは私には何の素振りも見せてはくれなかったが陰で心配していてくれていたらしい。そのことをあとで人づてに聞かされた時、遠い日の肉親の温もりを思い出した。
役員当時の山内さんは厚生省の課長だったと思う。二木会には遅れて出席したり、出られない時も多かったが、それでも忙しい中から時間を割いて二木会のために奔走してくれた。新橋のスエヒロで開催していた二木会を費用の点で現在の学士会館に変える手配をしてくれたのも山内さんである。山内さんが役員をやめたあとも学士会館は山内さんの名前で借りていたが、今回山内さんの死去に伴い最近私の名前に変えた。こんな形で山内さんのあとを継ぐことになろうとは残念である。
水俣問題で山内さんの答弁をテレビで一度見たことがある。いつもの山内さんを知っている者から見ればテレビでの山内さんはトーンが下がっていた。「苦しいだろうな」と思った。激励の電話でも入れようかとの思いが頭をかすめたが、まさか「自殺」という思いきった行動に直結しようとは夢想だにしなかった。山内さんに先手をとられ、ああいう結果になってしまったが、あのとき電話をしなかったことがいまだに悔やまれる。山内さんには強く生きていて欲しかった。
また最近偶然知らされたことがある。身障者の福祉に熱心な老女医さんが厚生省の山内さんに色々指導してもらっていたが、弱者の身になって考えてもらえる山内さんの温かい人柄に心から感激しておられた。その女医さんは事件を報じた新聞記事を切り抜き、部屋へ飾って毎日山内さんのご冥福を祈っておられる。悲しんでいる人が他にもいるのだとかえすがえすも残念だ。今山内さんは安息を得ているだろうか。ご冥福をお祈りします。
梅にちなむ地名が里を形成し、その芳香に誘われて文人墨客が移り住み東京近郊で知る人ぞ知る文化圏となっている青梅市周辺は都会に住む人々の心のオアシスです。
連なる山々の峠の中でその名も梅ヶ谷峠を越えて五日市に抜ける間道があります。人家が途切れ、杉の木立をくぐり、七曲がりの山道を越えて樹々の間に人家がみえかくれし始める頃に、山里に抱かれてうずくまるように地味な洋風の建物が現われます。精神薄弱者更生施設『日の出太陽の家』です。周囲は緑の山ひだにとけ込むような風情でその建物をとりかこむ日本家屋のひっそりとした風景です。
百五十年を経た武家屋敷の大屋根を中心に離れ家の茅葺き屋根が緑の向こうに、竹林を背に茶室の静謐なたたずまい、燻銀の瓦と銅葺の白壁の陶芸工房、この一かたまりの家々は隠れ里に生まれた、知恵おくれの人達と善意の協力者達の人知れぬ汗と涙と努力で産声を上げた三十名を収容する小さな施設です。
難産の苦しみ、歩きはじめのとまどい、三年の重い月日を経てこの集団は内なる障害を乗り越えて社会の中にとけ込もうと心の窓をみずから開きました。それは陶芸作業所を中心とする文化活動です。在園生の自立訓練に使用するかたわら、陶芸教室として開放し地域の人達や一般の方々に美しい自然の中で陶器をつくり、焼くよろこびを味わい、そして誤解されがちな精薄施設の本当の姿を理解して頂く機会を作りたいと考えたのです。
沢山の人々の寄附と協力で立派な建物と設備が完成し、青梅在住の著名な陶芸作家の方々の賛成を戴き、殊に日本工芸会正会員高橋紘先生の全面的な御支援を戴いて一級の講師陣を擁する陶芸教室として発足しました。今では常任講師の指導でロクロの音が聞かれぬ日はありません。
三多摩一と称せられる豪壮な木組をみせる武家屋敷は季節毎の各種文化イヴェントに開放し、(社)日本青年奉仕協会の国際ボランティアの研修会場として毎年合宿の場を提供しています。昭和二十六年卒矢野眞氏の佛画展も二回開催して戴き千名に近い参会者で賑わいました。現在は、京都の職人によって建てられた茶屋の活用と新たに硝子工芸棟の建設を計画中です。
文化活動を通して、社会との交流を深め、沢山の人の訪れが、在園生の社会復帰への原動力となる事を信じています。
隠れ里に芽生えた小さな文化活動の蕾を多くの方々の御知恵と御協力で大輪の花に育てあげたいと願っています。
館友皆様の御来訪を心からお待ち申し上げております。
東京都西多摩郡日の出町大久野五一〇七
社会福祉法人太陽福祉協会電話〇四二五−九七−二八一一〜二
陶芸工房〇四二五−九七−四二二三昨年に続いて「伝統と現代の調和を求めて」と題して、九月十八日に六回目のリサイタルを「こまばエミナース」で行いました。前半は、筝・尺八・笙、後半ピアノ、と伴奏楽器を変えて、すべて日本の歌で構成しました。演奏会には東京修猷会の後援もいただき、宮川一二副会長、渕上貫之幹事長をはじめ、多くの同窓の皆様方におこしいただき、感謝に耐えません。ありがとうございました。
歌が好きで、音楽を志そうと決めた時、選んだのも声楽でした。母が邦楽家だったため、子供の頃から筝、三弦、尺八の音楽を聴いて育ちましたが、声楽を始めた時には、これらは、同じ音楽でも自分とは縁が無いものだと思っていました。芸大に入り、その後、イタリアで勉強する機会も得ました。ミラノでスカラ座通いをし、彼らの音楽、彼らの音楽を求め続けた毎日でした。ところが、彼らの音楽を知れば知るほど、彼らの音楽のとりこになればなるほど、一方では、「お前は日本人だ」と、血の違いを考えさせられることにもなりました。祖国を離れて生活することで、かえって日本を見直し、自分を見つめることの出来た五年間でもありました。母の芸道五十周年記念演奏会で、宮城道雄の交声曲「日蓮」の独唱と、オーケストラとのコンチェルトに編曲された「千鳥の曲」の独唱をしたのが、帰国後最初の演奏会だったというのも、何か象徴的でした。
ところで、音楽を専門に勉強することは、すなわちヨーロッパの音楽を学ぶことを意味し、それとは別に伝統的な邦楽他の日本音楽の世界がある、という現代日本の情況を日本人としての文化的アイデンティティの喪失として嘆く声があります。しかし、音楽といえども、生活様式すべてとのかかわりの中で存在しているのですから、音楽だけを過去に戻せというのは不可能ですし、全く無意味なことです。ヨーロッパの音楽が日本人にとって異文化であるならば、例えば江戸時代の日本の音楽は、現代日本人にとってやはり異文化といえましょう。逆に、ヨーロッパの音楽は我々にとってすでに自己の文化になりつつある、ということも全く否定することは出来ません。我々にとっての「音楽的伝統」の中には、ヨーロッパ音楽の響きや様式・技法といったものが色濃く浸透しているということを、むしろ積極的に認める必要があるのではないでしょうか。
さて、ヨーロッパ人が自国の音楽を演奏する場合を「1」とし、日本の伝統的な邦楽出身者が伝統邦楽を演奏する時を「2」とします。大部分の日本の声楽家と同様に、私は、音楽大学でヨーロッパの発声を学び、限りなく「1」に近づこうと勉強してきました。ここで大きな問題となるのは、器楽と違い、声楽は言葉と深く結びついているということです。言葉と発声の問題、日本語の詩をよりよく表現するための方法を考えれば、限りなく「1」の方向にだけ目を向けていたのでは解決できないことも起こります。そして、私自身邦楽器の音色やそれらが繰り広げる世界に非常に魅力を感じています。日本的な感情表現には、ピアノやヴァイオリンなどよりも筝や尺八の方がよりふさわしいと思われる場合も少なくありません。ならば、私は「2」を志向するかと言うと決してそうではありません。「2」は、「彼らの」領域です。
私は勿論、普通の声楽家と同じく西洋音楽の歌い手ですが、普通より少しその幅を広く取りたいと考えています。即ち、伝統的な日本音楽の様式と精神を理解しながら、ヨーロッパ音楽によって培ったものを生かせればと思っています。「1」と「2」の間には無数の可能性がありますが、その中で、自分なりにそれらが調和した世界を創り出せれば・・・。そこには、日本歌曲のとても魅力的な新しい世界があるように思われるからです。
中京修猷会幹事長 日根野穣(S26卒)
昨年中京修猷会は発足十五周年を迎え、約三〇〇名の会員を数えるに至っており、主な行事として毎年総会と忘年会を開催しております。
昨年の総会は、去る五月十九日(土)に吉田秀男館長を始め同窓会本部より山下直人氏(十八年卒)、水崎雄文氏(三十年卒)、安増昌子氏(三十五年卒)の常任幹事の御列席を賜り、約七〇名の同窓生参集のもと東山会館において盛大に開催されました。
来賓の方々からの近況報告や議事が滞りなく終了し、祝宴へと入りました。杯を重ねるにつれあちらこちらで交流の輪が広がり、宴もたけなわとなった頃、司会者の「館歌斉唱」の掛け声に誰からともなく円陣が出来、肩を組み声高らかに歌い名残の尽きぬまま散会。興奮さめやらぬ面々は二次会へと繰り出していきました。
忘年会も最近は参加者が総会に劣らず多くなり、総会とはまたひと味違った和気あいあいとした雰囲気の中大いに話しに花が咲き一年の締め括りとして欠かせない行事となっております。
さて誠に残念なことに中京修猷会の会長として永年に亘り会の発展に大いに御尽力いただいた高木健太郎氏(昭二卒)が去る九月二十四日逝去されました。
高木先生は、生理学の権威としてその名を世界に知られており、昭和四十九年には紫綬褒賞を受章、また参議院議員として国会の場においてもご活躍されておられました。二年前「脳と幼児教育」というテーマでの講演を同窓生一同拝聴する機会を得、感銘を受けるとともに先生の博識に敬服の念を覚えた次第であります。先生の数々の御業績を偲び、御冥福を心よりお祈り申し上げます。現在は、中野博氏(昭九卒
現副会長)が代行という形でその任に当たられ、次回総会にて正式に就任される運びとなっております。以上中京修猷会の近況を報告させていただきました。平成二年六月十六日午後二時、総会実行学年である昭和三十九年卒業生主導のもと、グランドパレスで総会が開催されました。
森田澄夫さんの指揮による館歌斉唱にはじまり、松尾会長の挨拶、宮川副会長より故人となられた恩師、館友への黙祷がなされ、その後、会の事業報告や決算報告、来年度にむけての事業計画と予算案がいずれも満場一致で承認されました。
顧問の隈部洋氏(S15年)、監査役の野上三男氏(S20年)の挨拶もあり、無事に公式の総会を終了後、華やかな懇親会に入りました。
才色兼備の福岡放送アナウンサーの提信子さん(S56年)が司会として会を盛り上げ、マンドリンクラブの特別参加による館歌、その他の曲目の演奏が行われ、懐旧の情にしばしばひたりつつ、和気あいあいの中に館友の交流がすすみました。
圧巻は総会出席者を卒業学年四ブロックに分け、応援歌の対抗合戦が行われたことです。やはり年長組(昭和二十五年卒以上)が一番であったとの表敬的採点がなされ、応援団長の久保田成昭氏(S25年)がスポットライトを浴びました。
おみやげの立派な記念文集も加え、すばらしい総会を企画実行された久保田康史委員長や昭和三十九年卒の皆さん、本当に有難うございました。
在学時代の写真やフィルム、ビデオ、録音テープ等をお持ちの方はいませんか
倉本義介(S40卒)東京修猷会では修猷館同窓生のご協力のもとに、毎年六月に「東京修猷会総会」を盛大に開催しています。そして、今年は卒業後二十五年目の私たち昭和四十年卒の同窓生「東京修猷しっとう(四十)会」が幹事年として総会をお世話することになっています。
東京修猷会総会は、毎年幹事学年の方々の工夫を凝らした多彩なイベントで参加者を楽しませています。そして、今年の「平成三年度東京修猷会総会」では「古の修猷館」という企画で、過去の修猷館の記録写真やフィルム、ビデオ等を見ていただこうと考えています。
そこで、修猷館同窓生の皆様がお持ちの在学時代の写真やフィルム、ビデオ、録音テープ等がありましたらご提供いただきたいのですが。
大変貴重な記録とは思いますが、借用中の保管には万全を帰し、複写作業の後には速やかに返却いたします。また、ご提供をいただきました方には、完成したビデオを進呈させていただきます。
私たち昭和四十年卒の「東京修猷しっとう会」のメンバーは、「平成三年度東京修猷会総会」を成功させるために現在全力で準備をいたしております。みなさまのご協力をお願いいたします。
東京修猷会総会幹事 東京修猷しっとう会
もし、在学時代の写真やフィルム、ビデオ等をお持ちの方で、ご提供いただける場合は、お手数ですが、左記へご一報下さい。
〒102 東京都千代田区九段南4−7−22 メゾンドシャルー301号室
潟Vー・ディー・エス 気付 東京修猷しっとう会 事務局 担当 倉本義介
一月 中川八洋
S33年卒 筑波大教授 ゴルバチョフ「新思考」の世界戦略東欧やモンゴルから大撤兵し、また東欧諸国を開放したゴルバチョフは、西側では歓迎されている。しかし、軍需生産は、戦車千七百輌(日本五十六輌)、海軍艦艇建造費はブレジネフ時代の二倍、など軍拡にも余念がない。ゴルバチョフの狙いは、いったん大退却して経済再建に専念し、二〇一〇年頃に再膨張するころなのだろうか。
二月 深町宏樹 S30年卒 アジア経済研究所 外国人出稼ぎ労働者問題・・・送出国、パキスタンの事例・・・
パキスタンは特に中東産油諸国に対する労働力輸出国であり、最盛期の一九八二年には二百万人が輸出総額の一一〇%にも及ぶ外貨を本国に送金していた。そして今、円高と労働力不足の日本に推定一〜二万人のパキスタン人「不法就労者」がいる。これら海外労働移動現象と「成金」の発生は、パキスタンの封建地主社会変動の一要因となっている。
三月 伊藤正孝 S30年卒 前朝日ジャーナル編集長 総選挙・・・問われなかった政治倫理
リクルート事件のみそぎの意味をこめた総選挙が行われた。当然政治改革が争点となった。この状況は昭和十一(一九三六)年に行われた総選挙と似ている。このときも政党の腐敗が問題となり、国民の政治不信がつのった。リクルート事件は日本の階層分化が始まり、政財界上層部が情報を富に変えている姿を如実に示した。
四月 ながおひろし S38年卒リフレッシュ研究所所長 目標必達法・・・人と組識をいきいきさせる方法・・・
人々が、生き生きしている時は、「目標(課題)に挑戦する」→「達成する」→「認められる」のサイクルが回っています。しかし、様々な問題が障害となります。問題が発生した時、「状況がどうなっているか、事実を詳しく調べて」問題の本質をつかむことが大切です。組識では、メンバーの問題の事実の共有化が決め手です。
五月 山崎拓 S30年卒 衆議院議員 当面する政治課題について 山崎拓君「訪中報告」
五月の二木会テーマは、中国から戻ったばかりの山崎拓君の報告であった。団長は渡辺美智雄氏で、中国政府、党要人とかなり核心を突いた話し合いが行われ、マスコミ報道に乗らない興味深い話をされた。‘89年の天安門事件以来、わが国の第三次円借款をはじめ、外国からの援助が凍結されたため、窮地に陥っている中国側から一日も早い解除の要望がなされたのに対し、米国大使館で保護されている反体制物理学者方励之氏の亡命を認めるなど、政治的姿勢の軟化を示さねば西側各国の理解は得られないことを指摘した結果、承諾の態度を示すに至ったという。実際、その後六月二十五日に方励之氏夫妻は、病気治療という理由ながら、英国への出国を認められることとなった。
当時、日本航空北京空港所長であった久保久君(昭和30年卒)が訪中要員を出迎え、案内を引き受けたことを付け加えておきたい。(城川明記)
七月 佐々木康隆 S26年卒 ソ連研究家 「激動するソ連情勢とこれからの国際関係の見直し」
ロシアが生んだ歴史に残る政治家ゴルバチョフのペレストロイカ。多民族国家ソ連の民族問題は際限もない。そして一年以内に経済問題に目途がつかぬとゴルバチョフは大変である。彼がコケたらソ連は崩壊する。論理では世界は動かぬ。北方問題にこだわらず今困っているソ連を先に助ける方が日本外交を有利にするのではないか。
九月 渕上貫之 S26年卒 弁護士 アジア・太平洋地域の新潮流(日、米ソ、中、国際セミナーの報告)
激動の国際情勢の中に、米ソの二極構造が対立から協調へと変化したことを適確につかみとり、この下で、日本がアジア太平洋地域の発展にどう寄与すべきかを示唆する内容の話題です。わけても、極東地域(朝鮮半島を含め)に対する米、中、ソ各国の対応策が、真剣に模索されている意味深い実例も紹介しました。
十月 山崎養世 S52年卒 大和証券証券開発部 証券化ビジネスの展開について(不動産及び各種金融資産の証券化の実際)
アメリカでは、住宅ローンや自動車ローン、カードローンなどを、小口の債権証券にしたうえで、金融市場に流通させることが盛んに行われている。日本でも、抵当証券を始めとして徐々に「証券化」の動きが、拡大していく見通しである。(久保田康史)
十一月 野原宏 S38年卒 労働運動と企業戦略〜多角化、「分社化時代における労使関係のあり方」
野原宏氏の講演を聞いて
講師の肩書が講演案内時と講演当日とで変わってしまう珍しいことになった。しかも三井造船労組連合会中執委員長から経営の中枢である経営企画部長となったという希有な例である。結果として労使双方の立場からの意見を聞くことができたことは大変幸せであった。特に分社経営で出向者の問題、また組合の経営参加の考え方等、考えさせられる話題が多く、出席して良かったと思っている。
( 日本アジア航空 広報部 池永清 昭三十八卒)
二木会は、平成二年度も6、8、12月を除き毎月第二木曜日に開催し、毎回好評をいただいております。で今年も館友皆様が研鑽、懇親の場としての会の運営がますます充実する様努力致しますので多くの御参加をお願い申し上げます。 二木会担当副幹事長
中沢郁子(S29卒)
我々同期東京猷親会は総員三十九名、幸いに全員目出度く古希を迎え、一病や二病はあっても先ず元気で夫々の人生を送っている。
今年は春に大阪で『花博』に合わせて学年総会が行われ東京から八名が参加した。来年は東京で開催するので、今案を練っているところ。
この十一月には東京の例会を予定しているが、出席者が固定してきたので普段顔を合わせない人もどしどし出て欲しい。
(片桐貞夫) 【昭和十三年卒】五十回卒業の我等「修猷五十星会」にとって平成二年度は古希を迎えた意義ある年であった。六月七日と八日に亘り初めて東京でクラス会・総会を行い、遠くソウルより金振澤君の参加もあり約四十名の盛会となった。七日は靖国神社の参拝或いは、楢橋弥之助君案内の国会見学を有志で行い夜は青山会館にて一夕の宴を設けた。高村健一郎君、佐藤平一君の挨拶、酒宴前の館歌斉唱、終宴は“彼の群小”となった。八日は観光バスにて、九條武子夫人の「百花園父がいませし春の日は、花も我が身も幸多かりしを」の百花園を振り出しに言問だんご−浅草観音−駒形どぜう−吾妻橋より隅田川の舟遊び−浜町公園にて解散。一部有志は八日夜箱根の山荘にて、つきぬ別れを惜しんでの一泊となった。
(小川二生) 【昭和十四年卒】修猷卒業五十周年記念誌が、立川潤吉君の尽力で、昨年九月に出来上がりました。大勢の同期生諸君が、修猷時代や卒業後の貴重な想い出を寄稿しており、内容が充実した立派なものですから、生涯の想い出の記として愛蔵したいものです。東京同期会の今年度行事としては、ゴルフ会(三月十三日、武蔵野CC)、懇親会(九月十三日夜、新橋あかね)を開催します。奮って参加下さい。
(野村俊雄) 【昭和十七卒】いそしみ会東京支部は、在籍者五十七名。昨年十月二十日の同窓会には二十四名が出席、愉快に一夕を過ごしました。この会報の前号でご紹介した中央線沿線の有志の会は、昨年から回数をふやし奇数月の第三土曜日に開催しています。他地区の方も大歓迎ですから、ご都合がつけば、会長の林健児君 または私)までご連絡ください。
(島田栄治郎) 【昭和十八年卒】我々昭和十八年卒業及び準卒業者は、十八会の名称で東京地区では、年二回親睦会を開催し、その他地元からの呼び掛けに応じて福岡での会合に出席する者もいます。現在では都心部勤務の関係で、三木君と小生が幹事を務めています。以前には五十六名もの在京者が居て盛会でしたが、その後定年で第二の人生を送るべく帰郷したり、惜しまれつつ他界したりで、今では三十九名となり、親睦会の出席者も二十名前後となっています。我々の年齢は会社などの役員定年に当たり、昨年から今年にかけて、社長、専務などの要職を退いた者(帆足・鶴田・三木・宮原・米光・不破・井上)が多く、夫々第二の人生に向かい充電中です。修猷ゴルフ会について小生が再度お世話する事になりましたが、行き届かない事もあるかと思いまして、二十年代と三十年代から夫々宮本満君と中島縣吾君とを共に幹事としてお願いする事で、松尾会長の御承諾を戴きました。本厚木カントリークラブで毎年三回(春・夏・秋)の開催を予定しています。会に出席を御希望の方は、小生か宮本君又は中島君へ御連絡下さい。
(安心院幸敬) 【昭和十九年卒】東京修猷五十六会
昭和十九年卒。現在、東京近郊に四十五名が在住しているが、殆ど現役または第二の人生で活躍中。年に一〜二回旧交を暖めているのは御承知の通り、前回初出席の伊東竜男、富田稔、中島睦月、前山敏夫を加えて盛会であった。次回は、平成三年二月十三日を予定、上京出席者を期待している。また、口実をつくり随時都内で酔談に花を咲かせている。現在、福岡からの企画により電話連絡網を検討中である。(岩本博康) 【昭和二十年卒】平成二年度の東京践修会は五月十九日午後六時から、例年より少ない二十一名が参加、五反田の“ゆうぽうと”で開催された。今年は福岡からの参加者がなかったため、福岡の現況や同級生の消息が聞けなかったのは残念であった。しかし、戦時中の学徒動員で白木原の福岡精工にて一緒に働いた在京の福岡県立高女卒業生六名の特別参加があり、花をそえてくれた。例年と違う女性の参加で最初は全員少々緊張気味であったが、懇親会半ばには女性への花束贈呈、また女性たちの県立高女校歌合唱が披露されるなど、大いに盛り上がり、例年どおり校歌、応援歌を斉唱、午後九時前に無事今年の東京践修会の幕を閉じた。来年の幹事は四組の担当である。なお東京践修会会報を近く発行する予定、近況その他寄稿を待っているのでよろしく。
(田中康夫) 【昭和二十一・二十二年卒】吾破竹会は(昭和二十一・二十二年卒業)四年前より毎年総会を催し福岡・関西・関東三地区当番制としています。昨年は九月八日(土)由緒ある京都聖護院御殿荘に於いて同伴者を含め七十三名一年振りの再会或いは卒業以来の新顔。感激の夕に満足感の微笑・・・。戦中戦後の粗食のせいか定年後の新職場での緊張のせいか健康を害する諸兄の知らせを耳にするにつけ残念に思います。折滝道守兄も物故者になられ感無量です。熊谷兄外関西幹事の些細な歓待でゆかりの茶室のおてまえ。来賓に京都府荒巻知事(一年後輩)の祝詞。祇園舞妓さんの踊り等々京都ならではの夕。酌み交わす想ひさわやか加茂の秋(基幹作)館歌合唱直に二次会・・・翌朝食後大阪花と緑博へ案内いただいた。帰途車中二日間の感動を胸に抱き修猷館卒業生として今後共母校愛、幼友を大切にして諸兄からの厚情に対し感謝のみ。来年は当番幹事なれば最善の持て成しを準備することとした。尚、東京破竹会は恒例忘年会を催し盛会、近年は同伴者も多数本年(平成二年)も間近くなりました。
(東京破竹会幹事 一万田幸彦) 【昭和二十三年卒】六〇会は飛騨道で同窓会。還暦を迎えた人が大半の六〇会では、関東、近畿双方から岐阜下呂温泉に集合、合同の同窓会を九月に催した。昭和の初めの暴れ丑年生まれも、ほどほどにおとなしくなり、奥方から手綱をとられての参加も数組あって、なごやかな想い出に残る会になった。昨年はこれを中心にして、従来から発行している会報を出す予定にしていたが、幹事一同忙しくて手が廻らず、本年発行予定、東京六〇会在籍者六十四名、未だ一人も三途の川は渡っていない。誰が禁を破るか、張り合って生きたい。
(二村健次郎) 【昭和二十五年卒】我々修猷二五会(辻長英会長、三百二十人)は、本年、卒業四十周年を迎える。三十周年の記念事業に次いで、今回は次に述べる二つの記念事業を執り行ったので、同窓の皆さんに披露させて戴くことにする。
その一 卒業四十周年全国記念祝賀総会を京都で!首題の会を平成二年四月二十一日午後六時から京都市京都東急ホテルで開催した。久々の全国祝賀総会で駆け付けた同級生は五十五人。しかも、同級生荒巻禎一君の京都府知事「再選果たし」という慶事も重なったので会場は大変な賑わい様。お互い久し振りの再会で懐かしく、肩を叩きあい、エールを交わし合う光景しきり。
会は松岡肇君の司会で好調にスタート。辻長英代表幹事が「我々一同の殆どが来年『還暦』を迎える。これからは、いかにして豊かに生きるかと考える第三の人生コースに入る。一層、友情の輪を広げ結束を固めよう」と挨拶。続いて、式典部長でもある荒巻禎一君は「修猷には短期間しか在学しなかったが、今でも修猷OBであることを誇りにしている。在学中は上級生から気合を入れられたり、実に色々なことがあったが今は全て美しい思い出になっている」とユーモアたっぷりの挨拶、これにも一同の拍手喝采鳴り止まず。この後、関西支部の報告。次いで中野学君が記念誌部会の報告で、「既に原稿はあつまっている」と言明、これまた一同ご満悦。この頃からみんなの話題は、忽にして、いつ果てるとも分からぬ在学時代のものに急変する。
語る程に、聞く程に、お互いの話しは尽きず会場離れ難く立ち去りがたし。会は一、二、三次回と盛り上がり、その都度、館歌や応援歌が時ならぬ京都の夜に響き渡ったことは言うまでもない。
その二 卒業四十周年記念誌を刊行!修猷二五会は、終戦記念日八月十五日を初版日として卒業四十周年記念文集『チンチン電車を運転した少年たち』を製本刊行した。
我々は、旧制中学時代の昭和十九年に入学、同二十五年に卒業。この六年間、学徒動員や敗戦に伴う教育の大転機を体験し、様々な多くの思い出をこの激動の時代にとどめ置く。
四十年という年月の永さと、戦中戦後の歴史と体験が年々風化していく現在、在学期間の我々の経験や思い出話を中心に、ささやかながら記録にとどめ、出来れば自費出版して学校にも贈り、我々自身も自分史の一部として残すことが出来ればと考え、これを計画実行したのである。
食糧不足空腹時代の逸話や敗戦に伴う軍国主義教育から自由主義教育への「コペルニクス的転回」に対する感慨など。又、学徒動員先の話、中でも約五十人が僅か十三、四歳で『チンチン電車』を運転させられた思い出話。それに、逆境にあっての生きざまなど寄稿者百一人による戦中戦後のエピソードを満載させて戴いた。
文集の完成や刊行が、多くの級友の協力による賜物であることは言うまでもない。四百四十二頁でハードカバーに装丁された本一冊の販売価格は二千二百円。問い合せは福岡市博多区博多駅南、九州クラブ内の『二五会四十周年記念事業実行委員会』
(常任幹事 久保田成昭) 【昭和二十六年卒】早かもんで巣立ってからもう四十年ですたい。それでくさ、山笠の「勢い水」ば浴びて景気よお四十周年記念の慶賀会ばやろおと、仁禄、進参、大漫、各会の苦労人達が足はJAL、宿泊は西鉄グランド・ホテル、と準備万端進めとりますけん是非万難を排して参加しちゃんない。祝宴は志賀の島で地元仁禄会の方々にも同宿してもろおてくさ。車座になって玄界灘の潮風ば肴に酒がのうなるまで盃ば酌み交わし、夜が白むまで語り明かしまっしょう。
(吉田周弘) 【昭和二十七年卒】「二七会」は、春には大阪地区で行われ、十月には福岡地区、十二月は東京地区で行われる予定です。北九州地区は毎月で、このところ「二七会」の同窓会は活発化しています。今年は尾嶋先生の古希の祝いを東京で行おうと二十七・三十二・三十五年卒の有志グループが計画し、十月六日、先生御夫妻を招待、浅草で祝賀会を行いました。二年後に卒業四十周年を迎えます。今からその計画が楽しい仕事になるでしょう。
(佐伯康治) 【昭和二十八年卒】五十代も半ばを過ぎて、激動の東欧情勢、湾岸危機、国の内外に吹き荒れる嵐を目前にしつつも、若いときのように血が騒がない自分を淋しく思うこの頃です。皆様は如何お過ごしですか。功成り名を挙げて、孫の顔を見るだけが楽しみの生活を送るには、まだ一寸早いですね。定例の二月の猷友会で“青春”しませんか。いろんなこと、語りありましょう。
(金高紀子) 【昭和二十九年卒】復活された修学旅行:東京六八会の総会は、東京在住者約九十六名の内六十三名が参加し、盛大に挙行。三年程前から修学旅行の埋め合わせで懇親旅行をやっていますが、今年は桧枝岐温泉と尾瀬沼散策でした。参加人員十七名、何にでも効く露天風呂、絶品のソバとソバ切り、ロマン溢れる尾瀬沼の散策。こんな修学旅行をやっていたら人生が変わっていたかも。
(三枝啓一郎) 【昭和三十年卒】「どげんしよる会」年一回の旅行会、二年目にして定着。十月のウィークエンド、長野県蓼科高原に遊ぶ。関西よりの参加もあり、三十余名の盛会となる。生憎の天候ながらシャワー付きのゴルフ・テニス・霧中のドライブ等、それぞれに秋の一日を楽しむ。中には無駄な動きを一切省き、専ら寝溜めと露天風呂に徹した仲間もあり、さらに新しいメンバーを加えての再会を期す。
(藤江武久) 【昭和三十二年卒】東京三二会、去る十一月九日久し振りに、東京三二会を、丸の内ホテルにて開催旧交を暖めました。福岡からの川崎賢治、西村貞男、鶴川靖子さんが応援に参加し盛り上げてくれました。本会は今後頻繁に開催したいと考えていますので多数の皆様の出席を期待します。
尚、平成四年に卒業三十五年記念会を大阪で開催予定とのこと。お含みおき願います。会員の移動、ご意見は、平野、長崎、藤本、国分、神木まで連絡下さい。
(国分英臣) 【昭和三十三年卒】早いもので、三十三年卒が東京修猷会の幹事を担当して早や六年が過ぎた。その時以来、東京修猷会のあとの二次会を神田の「千両箱」で行うことにしており三三会の旧交を暖めている。毎年何かトピックスがあり、場を盛り上げているが今年は、千代田化工の吉川君の直属の部下の結婚式が話題となった。それは何とその相手が今をときめく女流作家「林真理子」であったからだ。三三会同期の皆さん毎年一回の同窓会に是非参加して楽しい一時を過ごそうではありませんか。
(滝口勝) 【昭和三十四年卒】十一月十日に開催された近畿修猷会をもって、東京を皮切りに福岡、名古屋と担当してきた同窓会総会の幹事役もようやく終了した。一連の総会を通じて各地の同期生が協力しあい親交を暖めあってきたが、我々の学年も五十歳という人生の新しい局面を迎えて、同窓会に対する意味も徐々に変化しようとしている。我々の過ごしてきた人生がどのようなかたちに完成するのか、これからが最後の正念場と言おうか。
(水野務) 【昭和三十五年卒】修猷珊瑚会卒業三十周年記念同窓会が、福岡で開催され、百三十余人が参加。東京からは、大挙二十九人が参加して気勢をあげました。記念ゴルフ大会、菁莪記念館での式典、福岡タワー見学、博多湾クルージング、大懇親パーティー、吉野ヶ里、有田焼の里を訪ねてバス旅行と超盛沢山のイベントで、参加者一同実行委員の面々に大感謝。懇親会では、福井健二郎君の小柳先生授業再現が大好評でした。
(今田正純) 【昭和三十六年卒】卒業三十周年を迎える本年は福岡にて秋に記念行事ば計画しとやね。日程等細部ば決めたら福岡の幹事が連絡して来る事になっとります。準備だけはしといちゃりやい。何しろ前年の福岡での総会の席で、東京から五十人は参加するけん頼むばいと言うてきたけん少ないとみっともなかばい。吉次晃二君古巣のジェトロに帰京、中山博明君英国から帰国。
(井島稔) 【昭和三十七年卒】昨年十一月七日に、「アサヒスーパードライ銀座」で三七会関東支部総会を行い、約三十名が出席しました。昭和六十三年の東京修猷会幹事以来、多勢で顔を合わせるのは久し振りのことで新顔も交え大いに話が弾みました。今後年一回は気軽に集まりたいと思います。福岡の三七会本部でも、平成四年の卒業三十周年を目標にいろいろと企画を立てているようですのでよろしくお願いします。
(小野寺幸夏) 【昭和三十八年卒】新年おめでとうございます。とは言うものの、この原稿が紙面に載る頃には、湾岸危機はどうなっているでしょうか。兵隊が死に始めるまでは、派兵反対の声も小さい。イスラエル特務部隊が武力介入の口実をでっち上げるのではといううがった見方もある。資本主義の本家でありながら、投機反対、ガソリン高騰に石油会社誹謗の声高し。これを機会にエネルギー政策の議論が本格化すればよいのですが。満州もトンキン湾も皆このように傍観していたのでしょうか。アメリカ・ヒューストンより
(萩原輝彦) 【昭和四十年卒】あけましておめでとうございます。今年は、我が学年が東京修猷会総会(平成三年度)の運営を担当する年です。昨年九月十日に昭三九会(しょうさく会)の皆様から事務の引き継ぎを受け、準備に取り掛かっています。予想以上の作業量に驚くとともに、先輩の皆様のご苦労がやっと理解できるようになりました。総会の成功に向けて精一杯頑張るつもりです。四十会(しっとう会)の皆様の積極的な参加を待ってます。連絡先(倉本)
(田中俊雄) 【昭和四十一年卒】四一会の会員は現在首都圏に約二百人おり、この数年は六月の総会と十一月下旬の年二回、新宿歌舞伎町に集まっています。今年は同期の森田君のリサイタルが九月に開かれ、その時二十人の仲間が集まりました。四一会は平成四年度の総会の幹事学年となっているので、秋の同期会は十一月三十日に新宿の例会場に三十余人が集まり、総会実行委員会を組織し、企画を進めることになりました。
(高橋章) 【昭和五十年卒】「残り物には福がある」といったヤッカミの中での結婚をする同期もまだいるようですが、だいたいは、みんないい親になっているようで、歳月の早さを痛感する次第。体力の衰え(運動不足)を感じられている方も多いと思いますがホドホドにがんばりましょう。同期会すら企画しない怠慢な幹事で申し訳ありませんが、東京修猷会の総会にはできるだけ顔を出して、旧交を暖めたいものですね。
(野中哲昌・公子) 【昭和五十三年卒】“みなさん お元気ですか?”は、私が勤めている会社のコマーシャルに使われた言葉であるが、最近、つくづくそう思う。卒業して五〜六年は、毎年十一月の第三土曜日が“同窓会”の日であったが、いつの間にかなくなってしまった.(学年幹事が知らないだけかもしれないが・・・)社会に出ると、転勤、転職等で連絡がとりにくくなっているが、“友達の輪”を利用して、同窓会を復活させたいものです。
(川畑総) 【昭和五十八年卒】私達昭和五十八年卒業生は「いっちょ やる会」といいます。現在判明している関東在住者は、約九十名ですが、もっともっといるはずですので、ご存知の方は是非幹事までお知らせ下さい。“いっちょ やる会”では、六月の東京修猷会総会の日の夜と、年末の忘年会を定例会としている新宿あたりで館歌や彼の群小が聞こえたら「お前達“いっちょ やる会”や」と声をかけてください。気持ちよーく“おごらせて”あげます。
(大浦公大・大島栄二) 【昭和六十二年卒】昨年度から、六十二年卒の幹事をさせて戴いております松村です。東京修猷会の名簿作成のお手伝いをさせて戴きました折、幹事を引き受けることになりました。名簿作成の際に、我々同期生が八十名ちかくも東京に来ていることを知り、大変な驚きと同時にとても心強い気持ちになりました。これからもお互いに頑張っていきましょう。最後に名簿作成に協力して下さった方々、有難うございました。それと、同期の金丸弘之君(在福岡)が結婚されたそうです。おめでとうございます。住所変更等がありましたら村松まで連絡願います。
(村松俊) 【平成元年卒】国際的に正に「激動」という言葉がふさわしい社会である今日各々理想を抱いて東京で精進していることと思います。が、ここは文化の中心地、東京。福岡にないものもいっぱいあり遊びにも余念が無いのも現状。そんな理由で皆さん御多忙とは思いますが、年一度開催される同窓会には是非出席をお願い致します。過去の思い出話に花咲かせるのも又楽しからずや。
(赤司友一郎) 【平成二年卒】今年の春に上京してから、早や半年以上が過ぎ、東京での大学生活にもすっかり慣れて充実した毎日を送っております。六月の総会では平成二年卒の出席者が少なく、寂しい思いをしました。今年はもっと多くの参加者をと思いますが、上京者の正確な人数、及び住所がわかりません。ご存知の方がおられましたら、東京修猷会事務局までご一報ください。
(川口知子)一九九〇年十一月五日、イラクの首都バグダッドでは、中曽根元首相一行を歓迎する現地日本人会主催のパーティーが開かれていた。その席上、私は修猷館昭和三十年卒業の小田昌人君と出会った。彼は住友商事バグダッド事務所長で、イラク側から出国を禁止されている身分だった。三十五年振りの同級生の再会は、片や“準人質”、片や湾岸危機を取材に来た新聞記者という型になってしまった。
翌日、イラク側は中曽根氏のバグダッド訪問に酬いるとして、人質、準人質七十六人の開放を通告してきた。開放される人々の名簿の中に小田君の名前があった。私は喜んだが、彼は出国を辞退し、自分のかわりに部下を出国させた。「現地の責任者として、僕がさっさと逃げ出すわけにはいかんよ」と、彼は残留組の部下と生死を共にする覚悟を述べた。この談話は七日付の朝日新聞にのったが、同級生の談話を自分の新聞に発表したのは、私にとって初めての経験だった。
残留した彼を夕食に誘った夜、切ない思いをした。最初に行ったステーキ屋は、「料理はいっさいない。ビールだけ」と言った。国連の経済封鎖で食料が乏しくなったのである。次に行ったアラブ料理屋は「パンを出しますが、警察が踏み込んできたら、自宅から持参したと言い張ってください」と耳打ちした。
小田君のこれからの生活の苦労が思いやられた。彼を残して出国する日、私は言葉のかけようがなかった。ただ短く握手して、空港に駆けつけた。
やはり三十年卒で三井物産バグダッド支店長の下郡信成君は、イラクの隣国ヨルダンの首都アンマンにいた。彼は八月二日の湾岸危機発生とともに「これは面倒なことになる。戦争になるかもしれない」と判断し、即座に部下全員を脱出させた功労者だった。紙一重の差で生じた人生の明暗に私は嘆息したが、イラクの「人質全員開放」の決定に伴い、小田君も帰国への道が開かれた。
国連の経済封鎖で商品がなくなり、閉店したところが目立つバグダッドの商店街
米国出張30回の目 日産自動車海外部 福山忠彦(S38卒)
昭和四十九年一月に初めて米国に行って以来、昨年で三十回を越すに至りました。今昔の比較というのは少々おおげさですが、当時との比較で感じたことをいくつか述べてみます。
タクシーの運転手に「ドライバー」と呼び掛けて行き先を告げ、レストランでは「ウェイター」または「ウェイトレス」と呼んで料理をオーダーするする時代から今では全て「ミスター」または「ミス」に変わったことを先ずあげることができます。
社会のピラミッドがフラットなものに変わり人をより大切に扱うという望ましい変化です。折りしも、この数年「マイノリティ」(黒人やヒスパニック等の少数民族)という言葉が流布し、様々な配慮がなされています。企業も「人種・性別等による差別的扱いは一切いたしません」と宣言をしています。
社会階層の平準化、人間尊重という大きなプラス面を持ち大歓迎すべきことですが、時として社会秩序の維持のためややナーバスになっている気もします。
次にあげられるのは、「一寸待って」という言葉です。昔は「ウェイト・ア・ミニット」でしたが、今は、「ウェイト・ア・セカンド」つまり、分から秒の速さとなった事です。車の運転も時速五五マイルでゆとりある走りでしたが、今は七〇マイルの猛スピードで走る車をよくみうけます。お人好しで大らかなあのアメリカ人はどこにいったのでしょう。なんだかセカセカしている感じがしてなりません。特に首都ワシントンの人は日本人よりも、「イライラ」「セカセカ」した毎日を送っているのではないかと思う時があります。
三つめにチップに対する感覚があげられます。枕元やホテルのボーイに昔はクオーター(二五セント)を渡していたのが、今は一ドル紙幣に変わった事です。何倍も払うようになった訳ですが昔よりも負担が少なくなった気がします。最も理屈で考えても三六〇円の頃の二五セントは9九〇円、今の一ドルは一二〇円、そして入社五年目と今の私の財布の大きさの差を考えると当然という気もしますがリッチになった日本を感じざるをえません。
日本と米国の関係は昔は子供の頃の兄弟関係つまり腕力を始めとして全てに兄が勝っていた関係から成人した時の兄弟関係に変わってきているのではないでしょうか。つまり一方的に要求したり頼ったりするのではなく、独立した成人として認めあい相互信頼に基づく協力関係が求められていると思います。こんな事を思いながら今年も数回米国出張を計画しております。
母校修猷館高等学校の元教師林秀武先生が旧臘十七日、ご高齢のため永眠され、同十九日「福岡斎場」でご葬儀が執り行われました。享年八十五歳。
在りし日の先生のご威徳を偲び、ここに謹んで哀悼の意を表します。
修猷館ご在勤三十八年。戦前・戦後を通じ、<トーキー>の愛称で、全館友に敬愛された“英語”の林秀武先生が長逝された。
林先生は、修猷館ご退職後もお元気でお過ごしだったが、昨夏、足を骨折され、入院加療中のところ、肺炎を併発され、お亡くなりになられた。
ご遺族連絡先
長男 林正道氏(昭和30年卒) 〒八一〇 福岡市中央区警固一‐五‐十一
修猷館同窓会では、平成二年六月二十日、創立二百五年最新版の修猷館同窓会名簿が完成いたしました。各学年の名簿委員のご協力で、行き届いた同窓会名簿が出来たと思われます。
尚、名簿基本台帳の訂正は修猷館同窓会事務局で、常時受け付けておりますので、東京修猷会の皆様のご協力お願いします。
修猷館同窓会名簿委員会会長 平田豊(S30卒)
(申し込み方法)
卒年・氏名・冊数を明記し、葉書又は、ファックスで。
〒814 福岡市早良区西新6丁目2−12 修猷館同窓会名簿係
TEL 092-841-0663
FAX 092-841-3333独身の方は、自宅に届けても、不在のこと多く、勤務先を明記して下さい。
新成なる地球社会を目指して世界が揺れ動く中で新春を迎えお慶び申し上げます。本年も無事会報三号を発行することが出来ました事は会員の増加と皆様のご協力の賜物でございます。今後共お力添えを、お願い致します。
東京修猷会の活動状況と仕組
毎年一回六月、本年は六月二十九日第五土曜日、グランドパレス・ホテル担当学年S四十年卒。多数のご出席をお願い致します。前号に於きまして本年より第三土曜に変更となっておりますが、会場の予約が大変厳しくなり、こちらの指定通りには到底難しく、本年は第五土曜日となりましたことをお知らせ致します。
毎月一回第二木曜日午後六時 神田神保町の学士会館にて開催。各界の館友を講師として勉強会です。前回の出席者の中で若い方からの声が印象的でした。唯、一日の勤務を終えるだけでなく、先輩の方々のお話を聞く事は本当に勉強になりますと言っておられました。この様に喜んで頂けるためにも話題や講師を推薦して下さい。案内状は会費納入者のみにお出ししております。
随時開催。各卒業学年二名の幹事が参集の上総会その他の議案を協議致します。
会長 松尾金蔵(S4卒)
福会長 宮川一ニ(S12卒)
幹事長 渕上貫之(S26卒)
副幹事長
事務局長 田端千弥子(S27卒)
ニ木会 中沢郁子(S29卒)
会報 中尾大三(S30卒)
組織 香崎温子(S33卒)
庶務 岡村浩(S35卒)
会計(補) 山本博(S36卒)
組織 田中俊男(S40卒)
会計 高橋 章(S41卒)
米、ソ協調で、世界情勢も落ち着く方向へ進むと思われた矢先の一月十七日、中東で「湾岸戦争」開戦、ソビエト連邦の内紛と全世界に大きなショックが走った。日本も無関係では、おられません。この様な世界情勢の大きな変化に対応していかなければならない現在の日本。日本の政治。そこで今回修猷館同窓生で、現在国政の場でご活躍中の四名にご登場願い、“政治家特集”と致しました。会報第三号発行に当たり、原稿ご依頼致しました方々が、皆様大変ご多忙で、会報発行が遅れましたこと、おわび致します。
尚、東京修猷会では、東京でご活躍の同窓生皆様よりのご寄稿をお願いします。
会報担当 中尾大三