東京修猷会・会報 第2号 1990年(平成2年)1月1日発行

earth_s.jpg (12622 バイト)  kaiho2-1_s.jpg (5976 バイト)第一紙面画像

写真提供 宇宙開発事業団

目次 (中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます)  

大項目 中項目 筆者 卒年
特集 昭和から平成の時代へ 心のふるさと 斉藤孝麿 T15
修猷館風 有吉新吾 S4
昭和初期の頃 小野 衛 S8
昭和から平成へと物流はどう動くのか 隈部 洋 S15
王陽明墓碑除幕式挙行 二村健次郎 S24
工場が教室だった 今泉俊昭 S25
転換期の青春 笠 耐 S27
ペン掃除機と昭和のマドンナと 井上孝代 S38
社会変化と人間病 中田洋二郎 S41
文化 随想 平成二年を明るく 東京修猷会会長 松尾金蔵 S4
中村研一記念美術館の開設 君島芳郎 S17
豆本趣味 坂本一敏 S5
政治家の陥穽 阿部公明 S31
総会報告 ’89東京修猷会総会報告 事務局長 淵上貫之 S26
就任祝辞 防衛庁長官就任祝賀会(同窓会)祝辞要旨 宮川一二 S12
二木会 '89.1〜'89.11の開催概要 二木会幹事 ----
学年だより 昭和12〜昭和59の幹事報告 各学年幹事 ----
この頃思うこと 豊嶋陽子 H1
お知らせ ファクシミリ募集(原稿募集) 関裕子 S59
’90東京総会案内 S39担当幹事 ----
家族ぐるみの同窓会 北京の空の下に 還田 宏 S59
近畿修猷会だより 近畿修猷会幹事長 廣瀬信夫 S26
デュッセルドルフ修猷会 事務局 ----
事務局 会員の皆様へ  事務局便り  編集後記 東京修猷会事務局

SAVE OUR PLANET

 東経約160度、高度3万6千キロメートルに置かれている静止気象衛星GMS「ひまわり」によって撮影されたものです。
 21世紀を目前にして、我々の住む地球の環境を真剣に考えねばならぬ時代になりました。
 そんな意味をこめて、巻頭を「地球」で飾ってみました。
 この写真は、田中俊雄氏(S40卒)のご尽力により、宇宙開発事業団より手に入れることができました。
 静止気象衛星「ひまわり」はデルタ型ロケットでアメリカから打上げたもので、衛星重量は三一五キログラム、円筒型をしており、東経約百六十度、高度三方六千キロメートルの宇宙にスピン安定方式で姿勢制御され24時間周期で地球を見守り、雲画像を送り、太陽の観測などを行っています。


特集 昭和から平成の時代へ

昭和は去り、平成の世となりました。この激動の時代に修猷健児は何を考え、如何に生きてきたのでしょうか。やがて来る21世紀を明るく迎えたいものです。


saito_s.jpg (3928 バイト)心のふるさと  T15卒 斎藤 孝麿

 第三十八回卒業で三八会を毎春福岡で開きます。母校卒業後は音楽の道に進み、音楽学校を出てから若いうちはN響でヴァイオリンを奏き、長じては横浜国大音楽科でヴァイオリンの教鞭をとって三十年、現在も湘南に定住して音楽塾を開いていて永年音楽に明け暮れた生活で所謂音楽バカの部類、会報に物を書くような柄ではないのですが編集の方から何か昔の事でもと上手に水を向けられますと、大正の名館長白坂(敬略)はじめ益田清水若月横田各先生方の面影が次々に懐かしく胸に浮かんできます。
 帰郷の度毎に母校を訪ねてみますが、正門から構内を眺め時たま皆菁莪堂で写真をとったりしますが内部の事情は知る由もなく、六十余年の歳月を経た今日ただ飛躍的に高度化した教育の館となったであろうと想像するばかりです。
 その昔、幾多の修猷健児が市電の終点今川橋で電車を乗り捨て、未舗装のホコリっぽい田舎道を朴歯の下駄履き姿で闊歩通学した西新町界隈のかっての鄙びた町並みはいつの間にか消えてなくなり、最近は地下鉄の走る近代都市風に衣替えして世の中の移り変りの烈しさに驚きます。
 時流の産物か数年前母校の移転問題が起き、幸いにして後日事なきを知りましたが、母校は卒業生の心のよりどころ、何時までも変わらないでいて欲しいものです。


ariyosi_s.jpg (2298 バイト)修猷館風  S4卒 有吉 新吾

 私どもは昭和四年の卒業に因んで尚志会という同年会をもっており、東京では毎年末に二十名ばかりの同級生が集まって忘年会をやります。お互いに八十に近い皺くちゃの顔の中に中学時代の紅顔の面影を見出しては懐旧の情を新たにしておりますが、これは数年を同じ学舎で共に過ごした仲ですから当然のことですけれども、同時に当時質朴剛健とか和魂洋才といった館風に培われた共通の精神土壌があることも一つの理由であるように思うのです。
 ところが戦後はそういう伝統の精神土壌が崩れ去り、学生の気風も意識もすっかり変わって仕舞って、今の若い人達は私どもには手のとどかない存在になった感があります。しかし、にもかかわらず、そういう人達から私も修猷館の後輩ですと名乗られると一ぺんになつかしい親近感を覚えるのは一体どういうことでしょうか。やはり母校を同じくするという親近感は洋の東西を問わず何か理屈を越えたものがあるようです。
 しかし顧みますと、戦後夫々の建学精神を誇りにした私学をはじめどの学校もその個性を喪って来ているように思います。やはり伝統ある学校は夫々建学精神を明確にして教育に立向かって貰えないものか、それが日本を支える人材を生むことにつながるのではないでしょうか。
 私が在学の頃は、毎年九月十三日、乃木大将の殉死を悼んで、真夜中の午前一時に赤坂門に全校生徒が集合、太宰府まで行軍するという行事がありました。あの行軍などなつかしい思い出の一つであります。


ono_s.jpg (4766 バイト)昭和初期の頃  S8卒 小野 衛

 私が修猷館に入ったのは昭和三年であるからもう六十年も前の事になる。まだ子供だった私にはよく分らなかったが、第一次大戦の後の好景気はもう終わってしまって、世は不景気であったらしい。「大学は出たけれど」というような映画がはやった時代であった。私が修猷館に入学した昭和三年は昭和天皇の御即位式が行われた年でもあった。御即位式の時、主基殿で使われるお米を作る役を福岡県が命じられて大騒ぎだったのを覚えている。そして世情は次第に騒然となって行った時代で、浜口首相が東京駅で狙撃されたり、遂には昭和六年九月十八日には柳条湖事件が起こり、満州事変の始まりとなったのである。
 あの頃の修猷館には良い先生が多くおられたと思う。優柔不断で弱虫だった私はこの頃に良き師に恵まれて鍛えられて行った。修猷館時代の先生の中で一生のお付き合いをする巡り合わせとなったのは荻島達太郎先生であった。その原因の一つは荻島先生とは尺八という同じ趣味のあった事があると思う。その荻島先生御夫妻ももう亡き人の数の中に入ってしまわれた。思い出のみが残る今日この頃である。


昭和から平成へと物流はどう動くのか  隈部 洋(S15卒)

 「昭和」という時代は、その意義付けを後世史家の結論に俟つとして、兎にも角にも日本民族に対して巨大な歴史的足跡と深刻な課題を遺して、六十有余年の幕を降ろした。
 代わって、平和と幸福を象徴する「平成」の時代を迎えたが、幕が開けるや否や、驚天動地の大事件が国の内外を問わず相次いで発生し、平成とは裏腹の大激動の渦に巻き込まれたといって過言ではない。
 本稿の主題は、平成時代の物流の動向予測であるが、これまた全世界の政治、社会、経済情勢の帰趨しだいで大きく左右されるであろうという大前提の制約を免れ得ないところである。物流とは、財貨を供給者から需要者へ物理的に移動して、時間的・場所的価値を創造する経済活動であると定義されるが、現在、我国経済の動脈を形成する物流世界の主力を担っている産業がトラック業界であることを冒頭に掲げたい。
 我国が近代国家として前進の第一歩を印してより今日の繁栄を招くに到る過程に於いて、物流の果たしてきた功績は大なるものであるが、終戦時までは何といっても国鉄による鉄道貨物輸送が物流の主軸をなしていた事実を忘れてはならない。終戦と共に、占領政策として経済民主化が導入され、戦時統制が撤去され新規の陸運業者即ちトラック業者が続々と参入し急速に鉄道を凌駕し、今日の地位を不動のものとしたわけであるが、一体その逆転の理由は何であったのか?
 それはトラックという輸送手段が持っている利便性、迅速性、確実性などの本来的機能が需要者の時代的要請にマッチしたことが挙げられるが、昭和三十年後半より急速に拡大された政策的支援によるモータリゼーションの全国的普及展開が前述の機能と相俟って、今日のトラック産業繁栄の支柱となったものと考えられる。
 トラック産業の現況を概括的に掴むんでみると即ち、(昭和六十年)
1.トラック事業者数: 3万6千6百社
2.従業員数     :約87万3千人
3.保有車輌数    :  約70万台
     (他に自家用780万台)
4.輸送量     : 約18.9億トン
     (他に自家用約31.6億トン)
5.輸送屯・キロ  :約1370億屯・キロ
     (他に自家用680億屯・キロ)
6.事業収入    : 約6兆6千億円

以上であるが、元来、自由主義市場経済の競争原理に耐えぬいて今日を築いている企業集団が即ちトラック業界であり、冒頭に掲げた大変動の時代をどの様な戦略で切り拓いて行こうとするのであろうか、誠に重大な時機だけに注意の関心を抱かざるをえない。
 いわゆる陸運業界の雄といわれる大企業・主力企業は殆どといってよい程、総合輸送業の営業体制をとっている。即ち輸送に関する限り、陸も海も空も総てを網羅しようという戦略である。さらに輸送のみならず、各種の物流サービスを提供し、荷主の物流ニーズに応え、物流のシステム化を図る体制、即ち「総合物流業者」としての基盤を形成せんとする機運が濃厚である。
 最後に本稿の結論に到るために最も注視せねばならぬことは、宅配業の今後のあり方であろう。クロネコヤマトの宅急便として颯爽と登場したヤマト運輸は、さしもの日本通運をも寄せ付けず、向こうところ敵なしの意気で猛進中である。同社の小倉社長は、自社の企業発展を「世代論」として展開しているが、第一、第二世代は荷主から命ぜられて物を運ぶ、単なる運び屋の段階から、保管・梱包・物流加工まで拡大した、いわゆる物流世代であるが、未だ荷主主導の世代であり、第三世代で初めて物流をシステムとして、即ち商品として売る世代であり、物流業主導の世代に入ったとしている。小倉氏は自身の活躍はここまでであり、後は第四世代を担う後継者に待つと宣言している。
 第四世代とは、物流業者が物流を基盤としながら物流を超える段階であるという。全国ネットを持つ宅配業者が自分で商品を扱う、即ち輸送・情報・販売を統合した「総合物流商社」になりうると考えるわけだ。夢はさらに膨らんで、ファクタリング(売掛債権費取業務)からノンバンク・バンキングまで行けば、将来は物流企業が日本のリーディング・カンパニーとして君臨する日を期待するのもあながち荒唐無稽の戯言とはいえない迫力を感ぜずにはいちれない。
 いずれにせよ、平成時代の物流の世界は、宅配業の一角から大旋風が吹き荒れるのではなかろうか。


王陽明墓碑除幕式挙行 -中心勢力は修猷館卒業生なり- 二村健次郎(S24卒)

 昭和から平成へと世の中は動いた。
 「貴兄達は修猷時代、学制改革を体験している。S二十年〜二十三年卒は四・五年卒と分かれ、二十四年卒は高等学校第一回卒で、六年間在学した事になる」。過去は記録のみにし、「今」を書く。
 平成元年三月末から二週間程、四回目の訪中をした。東洋哲学の大家、九大名誉教授・岡田武彦氏のカバン持ちを同級の古川史郎君(元三菱商事)と二人でつとめた。
 旅行の前半は、陽明学祖、王陽明の足跡を尋ねての「貴州省、四川省訪問」がメインであり、後半は、浙江省、余姚市等の主催「王陽明墓碑除幕式」に参列することが主であった。これは岡田武彦氏が音頭をとって、出来上がったもので、四月五日清明の当日は、百名余りの日本人が出席、中国全土から集まった中国側の学者、政府要人達と歓談、文字通りの日中友好を実現した。
 明治維新のバックボーンを語るに陽明学抜きではナンセンスである事は衆知の事実だが文化人革命で跡かたもなく壊された王陽明墓碑の修復が福岡在住の一民間学者の音頭とりで出来上がった事はマスコミが報じなかったので余り知られなかった。
 中回、浙江省余姚市(有名な酒の本場の本場、紹興の隣り)には王義之の蘭亭がある。蘭亭の故行事から「曲水の宴」が年まれ、太宰府神社の恒例行事になっているので、福岡の人達には縁深い所だ。その余姚が王陽明の年まれ故郷であり、蘭亭の近くの小高い山が彼の墓所であった。
 明の時代から何百年守られたこの墓所も、政治の大波に洗われて、石材は小学校の階段になったり、木材は農家の牛小屋用材に化けたりした。墓碑があった所も草木に蔽われ、不明になっていたのを、文献をたよりに探し出されたのも岡田武彦氏である。
 余りの無残さに涙した岡田氏は日本で募金活動を始められた。これが中国政府を動かし、日中共同の資金で立派な墓碑公園が完成し、当日の盛典に迄こぎつけられた。四年余りの歳月である。募金賛同者の名前は石碑に刻まれて当日オーブンされた。
 当然、当日の主賓である八十四歳の岡田武彦氏の祭文の声は朗々として江南の野に響きわたり、日本人の面目ここにありを実感させたのであった。中国浙江テレビは我々に同行し、「王陽明の一生」という一時間番組をつくり、放映した。
 さてこの岡田武彦氏は昭和十五年から二十四年まで修猷館で国語の教鞭をとられたあの"岡田さん"である。戦後すぐの新聞部、文芸部の悪ガキ連中がお世話になったあの"岡田さん"である。更に声をを大にしたいのは、自発的意志で参加した旅行者の中に、修猷館卒業生が数名もおり、(一番若いのは活水短大の荒木竜太郎助教授)カパン持ちをした我々を痛く感激させたことである。なれば水戸黄門様卸一行の叩く九州大他の大学の先生達をしりめに修猷館が幅をきかせたのは言わずもがなの事であった。


densha_s.jpg (7420 バイト) 工場が教室だった 今泉 俊昭(S25卒)

 昭和二十年六月、 僕たち二年生(中学)の勤労動員が始まった。
 各学級別に福岡管区気象台、日本タングステン工場、鐘紡住吉工場、西鉄市電運転所などに分かれて、それぞれの場所で、さまざまな作業に従事することになった。
 なかでも西鉄に動員された組は、やがて市内を走る路面電車の運転手・車掌という姿で市民の前に現れるようになった。まだ背丈満たない学友たちが、運転台の窓からちょこんと顔を出して、手動ブレーキを力いっぱい巻いたり、危うくポールに吊り上げられながら、軌道を切り変えたり、今だったら、とても安心して乗ってはおれなかったろうと思う。
 鐘ヶ淵紡績住吉工場は、戦闘機の胴体だけを組立て製作する規模の小さい軍需工場である。先輩の四年生一学級が前年の二学期からここに動員されていた。僕の学級は、そこへいくことになった。
 僕は満十三歳、まだ声変わりさえしていない子どもっぽい少年だった。それでも、戦局の悪化をひしひしと感じていた、大都市は焼野が原で、沖縄本島はほとんど敵の手に落ち、本土決戦はもう目の前に迫っていた。僕たちの日常が<死>と隣り合わせであるのを、心のどこかで痛いほど意識していた。そのくせ<死>を自分のこととして考えるほど成長してはいなかった。中学生としての学業も、もう僕の頭のなかにはなかった。勉強なんてどうでもよかった。僕たちには<未来>ということばは死語であった。
 僕は級友と二人で検査課に配属された。そこは各工程の仕上がりをチェックする部門である。月産目標二十機体でも、機材が不足しているため、検査の作業はおおむね暇だった。
 検査課には、先輩が二人配属されていたが、一人はすぐ陸軍の学校へ入校された。課長と係長、挺身隊の女性が数人のほか、筑後地方からきている僕たちと同年齢の少年がいた。
 彼は、話しから農家の子だとわかった。この工場には、彼と同じように、各地から動員されてきた少年工が数十人いて、彼らは工場内の一角にある宿舎で生活していた。ある日彼は、控室の机で葉書に向かっていた。
「早く戦争が終わって、家に帰れるといいなと思います」と、彼が書くのを僕は見ていた。この非常事態に、そんな甘ったれたことを書くなんて!
 軍国主義で教育された僕たちは、人前ではロが裂けても「早く戦争が終わって…」などとは言えないはずだ。
 だが、あけすけに「家に帰れたらいいな」と平気で書ける素朴さ、率直さに衝撃を受けたことを、僕は告白しなければならない。
 それから数週間たって、ある朝、彼は目を真っ赤に泣きはらしていた。事情を聞くと、仲のよい同僚が、昨夜宿舎の便所で縊死したという。その少年工は、前日、許可なしに田舎の家に帰り一泊して戻った。それを「憲兵隊に突き出す」と脅され、思いあまって首を吊ったのだった。「部屋からもれていたあいつの泣き声がたまらない!」
 戦争が終わったのは、それから一月後だった。
 測量器の使い方や鋲の打ち万を覚えたり、初めて煙草を吸ってむせかえったり、こっそり春画を見せられたりしたが、なにより「戦争」の裏側を覗き見た工場は、僕には「人間の悲しさ」を教えてくれる教室だった。


S27_ryu_s.jpg (6834 バイト) 転換期の青春  笠 耐(S27卒)

 朝九時にブダペストの空港に着く。アナウンスの声が私の名を呼んでいる。インフォメーションに行くと、二人の少女が待っていた。国際会議の現地の実務を一手に引き受けている高校の女教師エステル・トスの生徒だという。先生の依頼で授業を抜けて私達を迎えにきたのである。わかりやすい英語ではきはきと説明して、タクシーでホテルまで案内してくれる。ハンガリーの大きな湖バラトンの湖畔のホテルで開催されたエネルギーに関する国際会議は、四十カ国余りの国々から三百人近い参加者があり、原子力、核融合、太陽エネルギー、水力等のエネルギー利用と環境問題等、リスクとの関係、教育の問題、先進国と発展途上国との問題等々、プログラムも盛りたくさんで充実していた。しかし、その中でとくに印象的だったのは、トスの生徒たちの活躍であった。全世界から集まった専門家の前で、ハンガリーの高校生たちは環境放射能で今話題のラドンの収集と放射能測定を行い、自作のプログラムでコンピューターを駆使して解析し、その結果を堂々と議論した。その創造力豊かな若きサイエンティストたちの自信に満ちた報告、専門家の講演に熱心に聴き入る旺盛な好奇心、閉会のときにも問われると臆せず、流暢な英語でこの会議の感想を語った高校生たち、かれらとその教師との関係に、四十年昔の修猷館時代をふと懐かしく思い出した。
 運動場から松林を通り、青い海へと自由に駆け抜けて行けた時代。わたしたち女生徒が自立すべき人間として、人格を認められ、対等に扱われ始めた時代。旧制から新制への教育制度の切り替えの真っ只中で、修猷館最初の女生徒として、思い切り青春の自由を謳歌できたわたしたち。それは転換期ならではと思われる数々の思い出に満ちている。主婦であれ、職業人であれ、既成の価価観に囚われれず、自分の世界を切り開き、明るく楽天的に人生を送ることができるわたしたちを培ってくれたもののひとつが、自主独立の気風に満ち、生徒思いで見識が高い教師に恵まれいた修猷館であったことは確かであろう。


ペン掃除機と昭和のマドンナと 井上 孝代(S38卒)

 最近、糸井重里の「家族解散」を面白く読んだ。現在、文学の焦点が「家族」にあることは聞いていたが、今まさにそれぞれの家庭で、主婦が「今日で家族を解散します」と叫んだら一体どうなるのだろう、と胸を揺すぶられる思いがした。
 平成の世になるや、「女性の時代だ」「マドンナだ」と女性持ち上げ? の声が一層高まっている。事実、満面笑みの女性国会議員の勇姿をテレビで見たりすれば、女子大生亡国論華やかなりし頃に学年時代を送った身には「世の中変わった」の隔世の感がある。では、ここで「頃や良し」とマドンナ印の旗の下に世直し目指して馳せ参じれば良いわけだが、どうも今ひとつ元気がでない。
 同世代の友人が言った。「私達って進学もできて右手にペンは持てたけど、いつも、左手には掃除機を持ち、家庭を守ってこなければならなかったのよね」。確かに女性の生き方の意識を目覚ますチケットは手に入れたが行動に移す機会もないまま有効期限が過ぎてしまったような、そんな気がする。その意味で我々の世代の女性は、ちょっと古風な昭和のマドンナだったのかもしれない。そして、平成と号が変わったからといって、女性の生き方が根本から変わるはずはないと思っている。
 厚生白書には、高齢化社会における老人介護の八〇%は女性であるとし、老後の問題は女性の問題と示されている。また、母親が働きだしたため、食事もままならなくなった子どもたちが既成弁当を買いに行く(コンビニエンス・チルドレン)として、母性喪失を訴える報道も日につく。女性が社会で求められている役割が決して変化したわけではないのだ。「女性の時代」と掛け声をかけられても、なかなか動きだせないのはそのためである。今の状態で、掛け声のままに男性と同じく走りだせば、家庭と仕事と、何よりも自分自身に疲れ果て、きっと「家族解散!」と叫んでしまうに違いない。
 女性の時代と言われること自体は悪くはない。ただ、急に、状況を整えないうちにそうおだてられることにとまどいを感じるのだ。むしろ、男性だ、女性だは抜きにして、平成は「人間の時代」とでも言ってもらったほうがすっきりする。人間の個性を十分発揮できる時代、それがたまたま女性だったら、女性としての特質を発揮できるにこしたことはない。相かわらずペンと掃除機を両手に持ちながら、うつうつとこんなことを考える此頃である。


社会変化と人間病  中田洋二郎(S41卒)

 元号が変わると時代も変わるのだろうか。ただそう意識するためかもしれませんが、今年になってそんな感じのするニュースがありました。中国からの経済難民や観光ビザで働く外国人の話題です。
 日本は先進国だといわれます。私もそう信じていました。しかし、他の国と比べて欠けていたものがあったようです。経済的な成功は、労働力を必要とし他国からの民族の流動という現象を生みます。そういえば、ヨーロッパやアメリカなどの先進国はどこも移民や人種の問題を抱えています。
 日本も同じような問題を抱える時代になったのではないでしょうか。経済難民と不法外国人労働者、このどちらもが現在の産業構造と深い関わりがあるといわれます。それだけに外交や法的な措置では解決しない根の深い問題のようです。おそらく、私たちの生活にさまざまな影響を及ぼすでしょう。その点では、私がなりわいとしている精神衛生の分野にも大いに関わりのある問題です。
 これまでに経験のない変化はそれが急速であれば、一種のストレスとなります。ストレスとは最近ではよく耳にする言葉です。たとえば、「受験戦争のストレスをなくすために入試制度の改善が必要である」などといいます。本来はある生理現象を意味した用語が、なぜこんなに一般的になったのでしょうか。
社会の変化とこころの不適応の関係を証明するのは至難のことです。しかし、ストレスという言葉を使うと、その関係が自明のことのような印象を与えます。多少、便利に使われ過ぎているようにも思われます。
 ストレスの概念を最初に紹介したのは生理学者のセリエでした。一九三六年のことです。セリエは鼠に卵巣の抽出液を注射し、偶然に副腎皮質ホルモンが増加する現象を見つけました。新たなホルモン作用を発見したと喜んだ彼は、その現象を引き起こす物質を見つけるために実験を続けました。結果は徒労に終わりました。しかし、予期せぬことが見つかったのです。それはどのようなものを注射しても、また針で傷つけるだけでも同じ現象が生じるという事実でした。それがストレスの発見だったのです。
 ストレスとはもともと外からの異物や危機に対する生理的な防御反応を意味します。この反応は種の歴史のなかで作り上げられまた遺伝子にのって引き継がれてきた生理的な知恵といえるでしょう。社会をひとつの身体に例えると、社会の急速な変化はセリエの鼠の注射針のようなものです。しかし、残念なことですが、私たちはまだ適切な反応のしかたをしりません。今後の社会変動にどう対処するか。それはとても難しい問題です。しかし、ストレスにたいして生体のあらゆる機能が働くように、急速な社会変化に対処する機能をさまざまな分野で育てていかなければなりません。そういう時代になったとつくづく感じます。


title_bunka_s.jpg (2231 バイト) 平成二年を明るく  東京修猷会会長 松尾 金蔵(S4卒)

 明治四十五年元旦生まれの私は大正・昭和・平成と四代をわたってきたことになります。まさに「激動の昭和」を過ぎて、平成元年はまた内外ともに、激動の一年でした。
 異常な政治の中で、内閣は一年の間に三転してなお不透明と云われ、激震の海外情勢は、政治・外交・経済の全般に、まさつと不安定いっぱいです。無論、ひどい混乱もあります。何かもっと明るく楽しい話はありませんか。日本はこれでも、恵まれているんだと言わねばならぬのかも知れません。
 季節外れに妙に暖かいとか、雨つづきとか水不足とか、すると私たちはすぐに「異常」気象だと言いたてる。しかし専門家によれば、天候というものは本来、変転自在、人間の思いと違うから異常と言うのは当たらないとのこと。人間を含めて万端すべて、自然流動の中にあるということであろう。
 ある女流作家(彼女も中老以上かと思います)が、日本の男性中老以上は、とかくペッシミスティクに過ぎると誌上対談していました。世の中はこれで昔よりは良くなったし、これからもっとよくなろうとしているんですよ。私もそう思いたい。それでも明治生まれの私が、独り言で考えていると、どうも悪い方に考える心配症になりがちである。
 しかしわが東京修猷会は、昭和六十年春に母校創立百年・二百年祭を祝してからもなお、ますます伸び盛りである。むろん熱心なボランタリーの人たちの努力と熱意に支えられてのことではあるが、年々新しい若人たちが、男性も女性も続々とこの修猷会に参加してくれるからである。このますます大きくなってゆく輪集団(サークル)の中だけは、明るく楽しいことで一杯になるよう、皆んなでがんばってゆきたいものである。
 そのためにも、第二号を迎えたばかりのこの東京修猷会報がさらに大きな役割を果たして欲しい。特に新しい年次の若人たちの上昇気流が、紙上に大々的に反映することが、本会の将来を一そう明るくするだろう。
 新しい平成二年に大きく希望を託して、私の繰り言ごときは吹っとんでしまうことを願うものです。歳時記の片隅に嵐雪の句、
「一葉散る咄ひとはちる風の上」
とあるのを見て、私自身は大いに元気になりました。


中村研一記念美術館の開設  君島 芳郎(S17卒)
nakamura1_s.jpg (8136 バイト)車を停む(昭和7)  nakamura2_s.jpg (8024 バイト)

 昭和十四年十一月、大正三年卒業の三輪寿壮、中村研一、徳重英助三氏の講演会が修猷館で行われた。当時三年在学中だった私はこの講演会が中村研一氏との出会いであった。しかし、中村研一画伯の名前はその六、七年前から聞き及んでいた。その頃、福岡日日新聞(現在の西日本新聞)の主催で中村研一画伯による油画の講習会が毎年夏休の時期に福岡で開催され、その講習会に私の姉が三年続けて参加したことによるのだろう。その後大東亜戦争中に、朝日賞を受賞した「コタ・バル」を見た時の非常な感激は今でも忘れることはない。
 中村研一画伯が亡くなってからもう二十二年の歳月が経過した。この間、福岡や北九州の美術館で、また母校の修猷館で何度か氏の作品に接する機会に恵まれたものの、思い出は段々と薄れてきていた。
 ところが平成元年五月の二木会で、武蔵小金井駅の南ロからほど近い所に中村研一記念美術館が開館されると知らされた。我が家から近くもあり、昔の恋人との再会を楽しむが如く、開館直後から半年足らずの間に五度美術館を訪れている。
 美術館は、昭和二十年に代々木のお宅が空襲で焼失したあと転居された小金井市中町の武蔵野の風情をそのままに残した約三千平方メートルの邸内に、八百七十平方メートルの二階建ての殿堂が建てられている。一階には約五十点の油絵が陳列されており、二階は約三十点のデッサンや、画壇の友人の書信など興味深いものの展示にまじり、画伯の手になる陶芸品が数十点陳列されていた。寡聞にして、氏が戦後九谷焼の徳田八十吉氏や備前の金重陶陽氏と親交があり、自らろくろを回した事など今回初めて知った次第である。
 この美術館の建設には、全財産を寄付して財団を設立する等未亡人のお力が大きかったと聞き、先日お訪ねした。先ずお若いのに一驚、お話をしていて中村家の家柄の良さを痛感した。父親の援助で美校在学中からアトリエを構えたという恵まれたの一語に尽きる中村研一画伯ではあるが、父親の故郷の宗像でお祖母様に厳格に育てられ、修猷館で学んだ少年時代が氏を日本を代表する画家にしたのではないかと思ったりした。


mamehon_s.jpg (6342 バイト) 豆本趣味 坂本 一敏(S5卒)

 人には色いろの趣味がある。ここに私が述べる豆本の趣味は主として本の好きな人のなかに多い。それでは豆本とはどんなものか。日本では江戸時代にはじめて出現した小型本であるが現在われわれがコレクションの対象としている豆本のサイズは一応ハガキの半分の人きさ(10X7cm)位までの小さな本である。最小は一・四ミリ角の超豆本もある。現在日本の各地では十数種類の豆本が定期的に或いは単発的に刊行されている。いろんな形の豆本があり、三角形の豆本があるし丸型やペンダントの豆本もある。
 豆本は主として個人や趣味の会が刊行しているので、営利を目的とした本は少ない。従って発行部数も限られている。せいぜい多くても五百部前後である。広告もしていない。豆本は刊者の趣味によりいろいろ造本上工夫を凝らし内容、装丁とも非常に変化に富んでいて日本の出版文化史上、特異な現象である。
 日本の各地で刊行されている豆本には地方色豊かな個性がある。そのため豆本の名も地方名を冠しているものも多い。例えば「ゑぞまめほん」「青森豆本」「みちのく豆本」「埼玉豆本」「名古屋豆本」「九州豆本」「豊前豆本」等々北は北海道から九州までに及ぶ。土地の名を冠しない豆本を加えると大変な数になる。
 内容は小説、詩歌、句、郷土史、随筆などあらゆる分野に及びバラエティがある。色々な独創的な装丁があり、従って読んで面白く蒐めて楽しく、しかも保存に場所をとらないので助かる。空箱や引出しの中に多数の豆本が収まる。
 豆本は人生にとってどれだけの効用があるかという愚問にたいしては、無用の用であると愚答するより仕力がない。とにかく病みついたらなかなか治らないのが豆本病である。神田の吾八書房、東京堂書店や丸善などに豆本が置いてあるので関心のある方は覗いてみられるとよい。


政治家の陥穽  阿部 公明(S31卒)

 政治家と選挙民との関係は、なかなかに微妙なものである。選挙民としては己の一票を行使する時には、清潔で立派な人、国民と国の将来のために献身的に働いてくれる人をと思ってはいるものの、いざ選挙となると他の要因などが絡んで難しい。
 選挙民は、政治家とくに国会議員が国会の揚その他の舞台でどのような信念に基づき、どのような活動をしているのかについて殆ど情報を得られず、知る機会も少ない。踏みこんで言えば、知ろうともしていないのが現状ではないだろうか。
 新たに国政を目指している人は、常に地元にあって、毎日、朝から晩まで丹念に選挙区を廻り、どんな人たちと何度でも握手をして「自分を印象づけよう」とそればかりをやっている。その分だけ新人の方が選挙民にとっては、より身近な存在として受けとめられるという現象が生じている。ここに多忙な現職議員の陥し穽があるようだ。
 国政に携わって十七年、中央では順風満帆、確実なステップで地歩を固めてきた「拓さん」には、”一身を国家国民のために摺り減らしても悔いなし”との信念をもって国政に専念してきた自負がある。
 それ故に「この俺が、福岡一区選挙民の支持を失って落選などする訳がない」と頑に思いこんでしまうのも当然だろう。
 福岡の巷では、
「拓さんは有名だから大丈夫」
「今度は新人の後援会に行っちゃろうと思うとる」
との声が縊れている。
 拓さんの秘書たちでさえ、
「うちの先生が一番強かと…」
などと、横着な口をきいている。
 それもその筈で当の拓さんがすっかりそのように思いこんで日頃からそんなことを口にしているのであるから…。
 昔から「選挙は水もの」といわれてきた。過去の実績は忘れて、再び一から気持で、新人が初陣に臨むような覚悟でもって当たらなければ勝ち続けることは難しい。自重と健闘を祈る!


soukai_s.jpg (13014 バイト) '89総会報告 事務局長 渕上貫之(S26卒)

 平成元年六月三日、恒例の総会がホテルグランドパレスに於いて開催されました。
 森田澄夫さんの指揮により、館歌斉唱にはじまり、宮川副会長の発声で、他界された恩師や同窓生への慰霊の黙祷のあと、松尾会長よりの挨拶があり、集う館友五二四名は、今年も健康で、一堂に会し得た喜びを込め、会場一杯に響き渡る歓声で乾杯しました。
 これに先立ち、今年は役員人事の改選期に当たるため、向野元生氏(大9卒)が議長として、総会出席者全員にこれをはかったところ、満場一致で松尾金藏会長が再選されました。続いて松尾会長より、宮川一二副会長、渕上貫之幹事長ほか副幹事長八名が任命され、さらに新しく隈部、野上両氏が顧問に選出され、会の運営に当たることになりました。
 今年の総会担当は昭和三十八年卒の皆さんでしたが、華やかな、女性だけの「みやらび」グループによる祝い太鼓が打ちならされ、楽しい雰囲気が一段と盛り上がって来た中、桑原敬一福岡市長(昭15卒)の挨拶と、福岡博覧会「よかトピア」の紹介がありました。
 その後、盛大な福引きがあり、(一等はベアでJALの国内フリー券その他、豪華賞品)楽しい賑やかな懇親会となりました。
 最後に来年度総会の担当学年である、昭和三十九年卒の皆さんの紹介があり、この方々のリードで、応援歌「彼の群小」を斉唱し、めでたく総会の幕を閉じました。
 なお、当日配市された職業別名簿は、昭和三十八年卒の担当学年及びその奥様方の動員により作成されたものであり、大変な好評を博しました。
 個性豊かな、楽しい今年の総会を、全力投球で成功させた中沢宣也実行委員長をはじめとする昭和三十八年度卒業生の皆様方に対し心より感謝申し上げます。


祝辞 宮川 一二(S12卒)

 先に防衛庁長官に就任された山崎拓氏(S12卒)の祝賀会(同窓会)の祝辞要旨です。

 我々、同窓生一同が常に多大なる希望を託している拓さんが国務大臣・防衛庁長官に就任されたことは、誠に嬉しく、皆様と一緒におめでとうございますと唱和いたしましょう。
 さて、人生は幼、青、壮、老の四段階があると考えますと、青の時代に国務大臣になられたのですから、次の壮の時代には必ずや政治家として目指される総理大圧に、広田弘毅先輩の後を次いで、就任されることを願ってやみません。同窓生一同、出来る限りの応援をする覚悟であります。政治にも、修猷館魂質朴剛健をモットーとして頑張ってください。
 次に防衛問題でありますが、表面の人員・装備にのみとらわれることなく、後日の人員の移動、補充は勿論、弾薬等の配備輸送、及び予想される戦場に居住する一般大衆に対する配慮も十二分に払って戴きたく希望して、祝辞といたします。


nimoku1_s.jpg (4935 バイト)   '89 二木会 

一月 柴崎浩(S33年卒)
国立精神神経センター 神経研究所疾病研究四部長
「隣の働き」
「脳の働き」ときたので「アタマをハッキリさせる方法はないか、物忘れを直す方法はないかなど」と身につまされる質問が出た。講師に言わせると、そんな方法があったら真先に自分が試していると。記憶を良くしたかったら、それが身に着くまでしつこく反復するしかなさそうである。 (香崎温子)

二月 高岩和雄 (S12年卒)
ITK社(工学博士) 総合労研インターナショナル
「あなたの海外異文化適応性を考える」
力ルチュア・シミュレーションがあなたの海外異文化適応性を増大します。海外に出かけてあなたが遭遇する文化摩擦の数々を再現し、現地の文化に適応したあなたの対応を伝授いたします。海外に活動拠点を移すために出かける日本人は現地の人の共感と共鳴を引き出さなければ現地進出企業の繁栄は望めません。 (高岩和雄)

三月 伊藤正孝 (S30年卒)
朝日ジャーナル編集長
「リクルート事件」
果たして犯罪なのかどうか、リクルート事件は新種の錬金術としてさまざまな論議を巻き起こした。この事件を新しい上流階級形成の動きとしてとらえたのが本講演である。政財界にまたがった事件関係者は、徒手空拳から身を起こした人々であり、戦後平準化していた社会の格差拡大と事件発生の時期が一致していた。 (伊校正孝)

四月 箱島信一 (S31年卒)
朝日新聞社経済部部長
「平成元年経済展望」
昭和六十一年十一月以来、上昇局面にある、景気のけん引力となっているのは、設備投資と個人消費だ。内需依存型の好況であるだけに、景気の腰は強く少なくとも来春までは、今の調子が持続するものと思われる。ただ中長期的にみると、世界経済に波乱要因は多く、うまく調整して行かないと、日本経済もその大波をかぶることになりかねない。 (阿部公明)

五月 田中清士 (S37年卒)
NHK社会部副部長 宮内庁記者クラブ
「昭和の終った日」
宮内庁詰の田中清士君が「昭和の終った日」という題で、皇室取材三年の経験、特に昭和天皇御発病以来の興味あるエピソードを語った。皇室に対しては、無関心な演者も、いろいろな場面で見た昭和天皇個人の真摯な御人格には、感銘したという話は印象深かった。 (小野寺夏生)

七月 牛尾恭輔 (S37年卒)
国立がんセンター病院 放射線診断部医長
「地球の進化の歴史と癌」
癌のほとんどは、良性でありこれは誰にも、どこにもあることなど、このような人間に宿命的な癌は、地球及び生物の進化と深く結びついていると、考えられることを、多くのスライドを使って興味深く説明した。 (小野寺夏生)

nimoku2_s.jpg (8436 バイト) 九月 渡辺俊介 (S38年卒)
日本経済新聞社論説委員
「海部政権と消費税について」
今度の総選挙においては、社会党の候補者が出揃わない時期に行われ、自由民主党が過半数を制する公算が強い。そうなれば、海部政権は長期化する。また、消費税については、有識者の支持が高い事から、自由民主党主導の見直しで定着が図られる可能性が大との見解が示された。 (福山忠彦)

十月 平木英人 (S30年卒)
唐木神経内科クリニック 副院長
「ストレスと現代人」
ストレスによっておこるさまざまな心身の不調は、個人の能力を低下させ、ひいては自律神経失調症やうつ状態などの病気の原肉ともなります。ストレスに対する反応の仕方、即ち性格の長所弱点を知り、ストレス病の発症のからくりを知ることは、現代社会を健康に生き抜いていくための知恵であり、明日への活力の源でもあります。 (中尾大三)


 二木会は、先輩と後輩の知性と友情を交流・蓄積する場でもあります。
 現代を反映してか、昨年の講演内容には「健康」に関するものが多かったようです。ことしもまた様々な講演が行われるものと期待しています。多数のご参加をお願いします。
二木会担当副幹事長 中尾 大三(S30年卒)


title_gakunen.jpg (12943 バイト)( HP編集子より:紙版には有る個人住所、電話番号は掲載しませんでした)

昭和12年卒
去る五月二十日博多で全体クラス会が催され、総勢六十余名が出席、東京からも八名が参加しました。折からよかトピアの開幕中で久し振りに母校の姿を眺めながら見学してきました。東京修猷会もこの暮れに例会を開く予定です。丁度みな古稀の前後ですが、それぞれ事情を抱えながらも元気に暮らしています。(片桐貞夫)

昭和13年卒
平成元年十一月現在(原稿締め切り月)のクラスメートの動静は、吉野道夫君と水戸鉄夫君が体調整わず入院加療中、八木謙三君の訃報もあり、最近はまた自宅療養中を含め故障者が散見されるので各位の自愛を祈るや切、平成二年度は吾等古稀を迎える故、福岡にてクラス会総会を開くと聞く。前回の卒業五十年の記念総会同様、在京有志の多数出席を願う。 (小川ニ生)

昭和14年卒
卒業五十周年記念同期会を昨年五月二十九日、福岡で開催しました。出席者五十二名、うち東京から九名が参加。当日午後三時から菁莪記念館で慰霊祭、六時から大濠荘で恩帥伊東先生、現館長亀谷先生をお迎えして懇親会を行い、翌日はゴルフ会と太平洋博見学とに分かれ、楽しい一日を過ごしました。東京同期会は毎年九月十三日に開いています。 (野村俊雄)

昭和16年卒
それぞれが第一線を退き、第二、第三の道を進まれていることは心強い次第です。平成三年に迎える卒業五十年記念五三会(ゴンゾー会)は元気で一堂に会することを楽しみにしています。(一万田満州)

昭和17年卒
いそしみ会は年一〜二回、福岡本部、東京関西各支部毎に行っている同窓会に本支部相互に参加しあい、相互交流の実を上げています。去年はよかトピアの見物を兼ね東京から九名が福岡を訪ねました。東京でも中央線沿線の有志が年四回、吉祥寺に集まり盃を傾けています。参加希望の方は幹事までご連絡ください。(浜田悠紀雄・高向賢一)

昭和18年卒
先月、仲村偵孝君が亡くなった。ガンである。今年は先輩、友人の葬式がやたらに多く、これで七回目である。私ども十八回も郷里に引きあげる人も含め、だんだん寂しくなってきた。もう、こうなれば健康第一である。十月末、四国の金比羅山に登った。八百段近い石段を上れたので、まだまだと安心している。老いは足からと言われている。努めて歩くこと肝要と心がけている。 (三木善文)

昭和20年卒
践修会では、在学中の思い出を綴った単行本「戦闘帽と青春」-春風秋雨六十星霜-(葦書房発行、三百六十七ページ)をこの程自費出版した。我々の学年は太平洋戦争が始まった昭和十六年に入学、終戦の年に四年で繰上げ卒業するまでの間、黒い学帽をかぶることなく戦闘帽で通した唯一の学年であり、しかもその多くの期間を全員が勤労動員へ、またかなりの学友が軍隊へと得難い経験を持つ学年であるが、この当時の記憶を風化してしまわないうちに記録にとどめておこうと昭和六十年の卒業四十周年記念事業として計画したものである。毎年十一月三日に福岡で開催している践修会の今年の総会で会員に頒布したが、会員以外の希望者にも一部千五百四十五円で市販されることになっているので、入手希望の方は幹事まで連絡されたい。 (野上・田中)

昭和21・22年卒
東京破竹会は、毎年十二月に在京者による忘年会を開いているが、それよりも、このところ全国総会が一昨年の京都、昨年は東京、今年はよかトピアの福岡と続き、来年は花と緑の万博大阪でということに決まった。五年おきだった総会が毎年となり、女房同伴もふえてきたのは遺暦を迎えての人恋しさのためであろうか。(伊藤輝夫)

昭和23・24年卒
この一年間、六〇会(ロクマル会)には、天きな変化はない。即ち、一、誰も死ななかった。二、大きな病気をした者もない。三、教員・自営業者以外のいわゆるサラリーマン生活をしていた者は、まず第二・第三の職場に移った。「今なんていうとこに、行きようとやるか」である。(佐久間信久)

昭和26年卒
大漫会(オーマン会)も発足三十周年を迎えました。顧みますと、当初三十余名で産声をあげ「オーマン」に因んで命名し歴代幹事諸兄のご努力とご尽力で会報の発刊、未亡人の加入や二十五周年には夫婦同伴の総会など、ユニークな運営と会員の協力の成果である。更に今後の発展を期して一層のご支援を乞う。再見於総会! (吉田周弘)

昭和27年卒
あげましておめでとうございます。創刊号で福田純也氏が書かれたように、昨年も東京修猷二十七会が佐伯康治代表のお世話で、十一月二十五日学士会館本郷分館で開かれました。転出入の移動はあるものの、近年女性の出席も多く大盛会です。近々卒業四十周年記念行事計画も福岡と合同で進められるでしょう。その福岡では真鍋純哲氏が助役に昇進されました。(田浦清子)

昭和28年卒
本年六月猷友会の会長の島田捻君がガンのため急逝いたしました。修猷時代から生徒会長をつとめるなど常に人の世話をすることが好きな人でした。心からご冥福をお祈りします。いっほう田中憲明君が福岡四区から民社党の候補者として衆院へ立候補することになりました。彼は防大一期生で三十三年間にわたる自衛隊を空将補を最後に退官しました。北九州の皆さんの応援をお願いします。(松尾正弘)

昭和29年卒
平成元年はわれわれにとって東京六八会卒業三十五周年の記念すべき年となり、一泊旅行を九月九日伊豆長岡JRあやめ荘、翌十日は東洋醸造大仁工場見学など、修善寺周遊を二十二名の参加にて実施しました。記念総会は十月二十月、新宿センタービル52F大成クラブに、恩師ダルマこと国語の柴田穂積先生を迎え、五十五名の出席者盛会裡に終了。幹事の皆様本当にご苦労様でした。 (古賀新ニ)

昭和31年卒
多忙の仲、遺り繰りをして集まる機会を作っています。在福岡の篠田栄太郎君を招き、立候補の励ましを行ったり、グループ毎に集まり楽しい一時をもっています。十二月には忘年会を開きますので多くの会員に集まって欲しいと思っています。トピックスがあればお伝えください。(中村保夫)

昭和32年卒
しばらく東京三二会を開催しておりませんが、はやい時期に計画したいと思っております。昨年の移動は、武井君(安川電機)鳥井君(三菱電機)木下君(ゼネラル石油)の三人が転入致しました。転出入がありましたら平野、国分、神木までお知らせ下さい。(国分英臣)

昭和33年卒
昨年は卒業三十年を記念した修学旅行「サザンクロスの旅」で旧交を暖めた。今年は十一月二十五日大阪の新阪急ホテルで行われる近畿修猷会の幹事を三十三卒が引き受けるので、東京修猷三十三会からも十数名が応援にかけつける。福岡らも十数名出席とのことで甲子園近くの網引旅館で行う二次会兼同窓会で旧交を暖めるのを楽しみにしている。 (滝口 勝)

昭和34年卒
平成元年五月二十日、卒業三十年を記念する三思会総会が母校修猷館の菁莪堂において華々しく挙行されました。参加者総数百余名、大盛会でした。詳細は記念誌に掲載。恒例の東京三思会忘年会は、今回から東京修猷会総会に併せて開催します。平成二年六月二十三日(土)の子定です。奮ってご参加ください。 (松本秀三)

昭和35年卒
本年は修猷館卒業三十周年を迎えますことご承知のことと思います。九州にて、三十年会を地元の有志が企画開催してくれることになっています。卒業三十年目は単なる通過点ではありますが、会合には沢山の方に出席されますよう望んでいます。(福井健ニ郎)

昭和36年卒
東京へもどった人、石井嘉昭(建設省)広田教一(整備公団)日高久萬男(防衛庁)田崎卅穂(昭和電工)。福岡へは、雨宮真人(NTTから九大教授)吉次晃二(よかトピアから福岡貿易情報センター)。アメリカへ、田中純一、大櫛勝彦。英国へ中山博明、と人それぞれ、多忙な毎日を過ごしているようです。 (井島 稔)

昭和37年卒
昨年は総会幹事学年の翌年ということで特に何もやりませんでした。しかし、六月の東京修猷会総会には約十五名が顔を見せ、二次会、三次会を楽しみました。また、二木会には五月に田中清士君(NHK)が、七月に牛尾恭輔君(国立がんセンター)が、それぞれ興味ある話題を講演しました。今年は気楽な集まりをしたいと思います。(小野寺夏生)

昭和38年卒
あげましておめでとうございます。昨年は、私共が総会幹事を承り粉骨砕身、皆様方のお世話をさせて頂きました。多くの会員の方々のご支援により、無事大役を果たすことができましたこと、本欄をお借りして厚く御礼申し上げます。会員各位の益々のご発展とご家族のご健康をお祈り致します。(中澤宣也)

昭和39年卒
卒業以来二十五年がたち、いよいよ我が学年が東京修猷会平成二年度総会の幹事を引き受けることになりました。九月二十九月にさんばち会の皆様から引き継ぎを受け、仕事の多さに驚くとともに、先輩の皆様のご苦労に改めて思いをはせました。総会の成功に向けて精一杯頑張るつもりです。同窓生の皆様のご協力をお願いいたします。(久保田康史)

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昭和40年卒
明けましてお目出度う。東京四十会は現在一二八名(男性一一○各・女性一八名)おる。春と秋に定例「しっとう会」ば開催しとるばってん、毎回三〇名前後の参加で盛り上がっとる。まだ顔ば見せとらん人はぜひ来んしゃい。案内が届いとらん人がおったら学年幹事まで連絡しちゃんしゃい。待っとうけん。 (柴田秀二)

昭和42年卒
昨年、東京修猷会総会の連絡係をつとめて以来、学年幹事をやっていますが、残念ながら、特別な同期会活動はできていません。修猷館を卒業して二十三年、高校時代をなつかしく思う年代となりました。我々同期は東京に一五〇人以上もいます。ぜひ、旧交を暖める場を設けたいと思いますが、まずは六月の総会に皆で参加してはどうでしょうか。我々の代が総会幹事学年となる日もそう遠いことではないのですから。(土井芳夫)

昭和47年卒
前幹事をつとめた湧川君の後任を、越智敦生君が引き受けてくれることになりました。彼の温厚で誠実な人柄は、まさに幹事に適任と申せましょう。同期全員の皆さまの一層のご協力をお願いいたします。勤務先は越智会計事務所です。何かありましたら、ご一報下さい。(福嶋治)

昭和48年卒
修猷館を卒業して十七年になる私たちは、三十代半ばになりました。近ごろ、自分が一つの節目を迎えていることがつくづくと判ります。いくつもの要素が、自分に一定の方向を示しているように思えるのです。同級生の消息の中にも、様々な形の転機を散見もいたしますが、ちょうど私たちが、そういう時期に差しかかっていると感じられる此のごろです。(田中都)

昭和50年卒
フ、フ、フ…。ハーレムでっせ、ハーレム。ついに娘が三人となりましたのや。四人の女性に囲まれて、幸せな毎日を過ごしたいのに…。働きすぎはもう古い、これからはゆとりと豊かさを…というのはわかっていても、なかなかできない日本人の悲しさ。ゆとり作りのために徹夜する毎日です。皆さんも、お体にだけは十分お気を付けください。女房の公子も相変わらず元気です。 (野中哲昌)

昭和52年卒
同期生の皆さま、修猷館を卒業してから十三年たちました。お元気でしょうか? 三十代は「働きすぎ、飲みすぎ、遊びすぎ」などとよく言われますが、とはいえ皆さんも仕事や家庭等公私ともども大変だろうとお察しいたします。実は私もそのひとりなのですが、時どき、卒業アルバムなど引っ張り出しては高校時代を思い出し「皆に負けられぬ」と励まされているのであります。これから、人生の中で最も充実したときを迎えようとしている我われ、お互いに頑張りましょう。(真子浩明)

昭和56年卒
われわれの同期生は、就職後上京した人も含めて、相当数が首都圏に在住しているはずですが、まだ三十五人程度しか住所がわかりません。これを読んだ五十六年卒の方、ぜひ、近況を幹事もしくは東京修猷会事務局にご一報ください。幹事が知る限りの既婚者は以下の通り。大嶋卓二、大黒哲也。早船佳子。関 康則。それから、田中昭人(早大卒)と松本正文(中大卒)が司法試験に合格したとのこと。おめでとうございます。(松尾正俊)

昭和58年卒
私たちの同期会は「いっちょやる会」と申します。昨年から東京在住の同期生の名簿を整理しておりますが、まだまだ、皆移動が多く、なかなかまとまりません。住所変更など同期生に関する情報がありましたら、マメに幹事の大浦か、大島まで、ご連絡くださるようお願い申し上げます。(大浦公大、大島栄二)

昭和59年卒
昨年暮れ、東京在住者の同期会を、初めて行った。メンバーは、大半が学生であったが、途中から社会人も、駆けつけた。酒を飲みながらの話題は、高校時代の思い出話しが中心となり久し振りに、高校時代に戻ったような気がした。これからも、このような同期会を、開催できればと思っている今日このごろである。(古谷誠一郎)


toyosima_s.jpg (3132 バイト) この頃思うこと  豊鴫 陽子(平1卒)

 修猷館高校を卒業して、早や一年を迎えようとしています。東京での、そして大学での生活にもようやく慣れ、思い出すのは高校時代の恩師、友人のことです。春の東京修猷会では、初めてのOBとして多少の期待と不安を持って出席させていただきましたが、先輩諸氏との暖かい交流によって修猷同窓生としての誇りを自覚し、また大変勇気づけられました。
 記念すべき平成元年度の大学入学生として充実した大学生活を送り、身をひき締めて来るべき二十一世紀に備えなければと考えています。これからは、今後益々多様化するであろう国際社会に夢を持ち、如何に対応するかが重要な課題となると思われます。果たしてどのような未来社会が待っているのか、誰も知り得ない将来に向かって、何を、どのようにすればよいのかを今後の大学生活において模索し、会得する努力も私を初めとして現代の若者に課せられた一つの課題だと考えています。その上、これからは両親の庇護から抜け出、一社会人としての義務と責任も全うせねばなりません。現代はマルチ人間の時代ですね。専門分野だけの人生は味けないけれども、仕事もできて且つ、多芸多才という人生は魅力的で充実感あふれるものに思われます。これだけは自信があるというものを目指し、その上、幅広い知識、教養を兼ね備えた社会人になるべく、先ずは自分自身の興味の湧くことから始めるのも良いかと考えています。何事においても努力をおしまず行えば先が見えてくるに違いないのではないでしょうか。
 高校を卒業し、大学生となり、将来のことを以前よりも少し真剣に考え始めた最近、私が感じていることをとりとめもなく書きました。今後も修猷館で培った精神でもって精一杯やっていくつもりなので先輩諸氏の皆様、よろしく御指導の程お願いします。


gougai_s.jpg (6498 バイト) ファクシミリ  関裕子(S59卒)
 東京修猷会ではFAXによる皆様の原稿を、一年中、お待ちしています。活字では表せないものや、毛筆の得意な方は是非どうぞ。絵ごころのある方は問題ありませんが、どちらもニガ手な方は写真という手もあります。
 ただし、会報にそのまま転載すると小さくなるので、縮小されることを考えて送るようにしてください。
応募多数の場合は、こちらで選択させていただき、削ったり直したりする場合もあります。次回の会報に乞うご期待!


お知らせ!
 東京修猷会総会は、今年から六月の第三土曜日に変更されました。会場は変わりなく、ホテルグランドパレスです。皆さま、こぞってご参加下さい。お待ちしています。
 今年はS39卒が担当学年です。


家族ぐるみの同窓会 -北京の空の下に- 還田 宏(S59卒)

pekin_s.jpg (7020 バイト)

 中国では、古来人生の四つの歓びの一つに
  故郷を遠く離れた土地で懐かしい友人に出逢う
ことをあげております。
 地理学的には近い、当地中国北京もイロイロな意味で、まだまだ遠く、不便の多い所といえますが、そのような所で一昨年昭和六十三年六月、母校修猷館を語りあう会が発足しました。
 発足時のメンバーは、
  久保 久(S30卒 日本航空)
  太田 茂(S43卒 日本大使館)
  入江邦洋、吉村由美夫(S43卒 サントリー)
  庄野直之(S57卒 住友商事)
  還田 宏(S59卒 日本たばこ)
の六名でした。
 昨年四月に太田、吉村両氏が帰国され寂しくなりましたが、五月に藤井新一(S44卒 全日空)氏が赴任され、現在五名の北京修猷会となりました。
 昨年六月四日を頂点とする動乱により、三千人といわれた北京在住の日本人のほとんどが帰国を余儀なくされましたが、現在ではその八割が北京に戻り、同窓生も全員が仕事に復帰しています。
 同窓生は家族ぐるみの夕食会や二カ所のゴルフ場、四カ所あるカラオケ・スナックに寄り合い「海の内外、陸の涯…」と館歌斉唱など意気軒昂。母校の想い出を語り、福岡を語り、北京修猷会の存続を確かめあっております。
 福岡といえば、北京には福岡出身者が多く、福岡県人会も結成されております。勿論、この場でも修猷健児は活躍し、久保氏が会長、入江氏が副会長、私還田が幹事長ということで、月一回会合を開いております。
 各種企業多士済々、情報交換(かなり貴重な情報が多い)や親睦を深めております。
 修猷館の同窓生の方、老若男女を問わず、北京にお立ち寄りの際はぜひご連絡ください。
 北京修猷会一同「熱烈歓迎」いたします。再見!


hirose_s.jpg (3189 バイト)家族ぐるみの同窓会-近畿修猷会だより-

幹事長 廣瀬 信夫(S26卒)

 私は近畿修猷会の幹事長を命ぜられて早くも十二年目を迎える。頭初、大先輩等の呼びかけで近畿にも修猷の炎を灯もそうと企画したときは、遠く離れ、戦後の繁忙の中にともすると青春の地を忘れかけた懐かしさに共感を覚えたのだろう、ホテルの会場は立錐の余地もない程の盛況に互い驚いたものである。だが、こうしたものは単なるノスタルジアだけで組織は成り立つものでなく僅か三年で出席者二十七名という消滅の危機がやってきた。関西はエリートコースの通過地点でしかないと言われる通り登録会員は約一千人ありながらその中身の変化に対応できる会則も公費もままならなかった。常時、金策と徒労に走るばかりの幹事長役を私は辞任したく、大先輩であり関西の重鎮、元ユニチカ社長故原 吉平氏(大6卒)、元クラレ会長故仙石 襄氏(大10卒)に相談に参上した。ところが開口一番「ばか!! 甘えるんじゃない。お前が止めて誰がやる。やるんだ!!」と一喝。この理屈にならない理論が修猷理論であり、また人や組織を動かす偉人等の迫力であったのか私は唯ひたすらやるしかなかった。そして多くの大先輩の協力を得ながら根本的な運営改革を目指す内に、元近大附属病院院長故陣内傳之助(昭5卒)会長が「同窓会を家族ぐるみで!!」を打ち出し「修猷近畿村」の発想が決まった。
 お陰で結婚、就職、果ては下宿の相談まで、この零細企業のオヤジの私の所はちょっとした「修猷村役場」である。こうした村民運動が功を奏さない訳はなく年々各種イヴェントはもちろん、総会出席者も二百名前後と増え本部からの来賓の方々よりお褒めの言葉も聞かれるようになった。現大阪工業大学教授佐藤次彦会長(昭18卒)の情熱もすさまじく予算ゼロの中から名簿の整備と発行のノウハウを披露、「近畿修猷新聞」を一千四百名の会員に配布出来るようになった。
 あのとき「ばか!! 甘えるんじゃない!!」の大先輩の一喝がいま、近畿修猷会の花を開かせようとしている。


デュッセルドルフ修猷会
 創刊号でご紹介しました西独デュッセルドルフ修猷会を支えてこられた、在独三十年のお三方の住所がわかりましたので、お報せいたします。

保坂男助氏(S16卒) ドイツ丸紅

石田具一氏(S20卒) 日本人会嘱託医

津田博彦氏(S22卒) 新日鉄欧州事務所長

(HP編集子より:個人の住所、電話番号はHP上に掲載しないこととしておりますので、上記住所に関してお知りになりたい方は、東京修猷会事務局、またはHP会報担当までお問い合わせ下さい)


会員の皆様へ

 東京修猷会の活動のすべては会員の皆さまから納入される合資によってまかなわれておりますので、ぜひ、ご協力をお願いいたします。
 年会費は三千円です。納入は同封いたしました振込用紙でお願いいたします。
 平成元年度の総会用に作成いたしました「東京修猷会職業別名簿」は在庫があります。ご用の方は事務局までお申し込みください。一冊、送料共二千八百円でお頒けしています。


事務局だより

 新年おめでとうございます。
▼会報創刊から早や一年が経ちました。お陰さまで、総会に出席できなかった方だけでなく、同窓会に興味をお持ちでなかった方や会の存在をご存知でなかった方などにも喜んでいただきました。これに励まされて第二号発行の運びとなりましたが今後も年一回の発行が可能かどうかは、財政上の問題もあり、ひとえに皆さまのお力添えしだいなのです。

▼東京修欧会の活動状況と仕組をお報せいたします。
1.総会
 毎年一回、六月第三土曜日。昨年までは第一土曜でしたが、本年より第三土曜に変更いたしました。会場は従来通りグランドパレス・ホテルです。ことしの担当学年はS39卒で、準備はすでに進められていますので、ぜひともご出席くださいますよう。また毎年の事ではありますが、広告その他、財政的ご協力もよろしくお願いいたします。

2.二木会
 毎月一回、第二木曜日、午後六時より、神田神保町の学士会館で開催。各界でご活躍の館友を講師にお招きしての実りの多い勉強会です。講師の選定は今年度担当学年の横山忠彦(S38卒)を中心に推薦されますが、聞きたい話題や講師候補などありましたら、二木会担当役員の中尾大三(S30卒)または事務局までご連絡ください。一月は筑波大教授中川八洋(S38卒)氏の「ゴルバチョフ『新思考』の世界戦略」です。案内状は、会費納入者のみにお出ししております。

3.学年幹事会
 随時開催。卒業学年二名の幹事が参集の上、総会その他の議案を協議いたします。

4.役員の役割と担当
 会 長  松尾金蔵(S4卒)
 副会長 宮川一ニ(S12卒)
 幹事長 渕上貫之(S26卒)
 副幹事長
  会報  田端千弥子(S27卒)
  庶務  中沢郁子(S29卒)
  二木会 中尾大三(S30卒)
  会議  香崎温子(S33卒)
  会計  岡村 浩(S35卒)
  会計  山本 博(S36卒)
  組織  古賀宗春(S39卒)
  組織  田中俊男(S40卒)

5.事務局  富士総合法律事務所内 (HP編集子より:現在の事務局ではないので住所等は掲載せず)


編集後記

 '90 昭和はふるさとになり、世界のうねりが高まる中で、ハンガリーは「共産党よサラバ」ベルリンの壁が崩れ去る大きな節目、平成二年に会報二号とは何かの縁だと思っています。
 明治、大正、昭和、平成と館友の方々に、日本の繁栄の中で、それぞれのお立場から一筆をお願いいたしました。スペースが限られたことで、言い尽せなかったのではないかと思いますが新世に向けての小さなブリッジになれば幸いに存じます。
 ご多忙の折、原稿、広告等とお寄せいただき、まことに感謝にたえません。
 最後になりましたが、男女共学になって約四十年、女性館友の参加、ご支援をお待ち申しあげます。

編集長 田端千弥子(S27卒)
編集構成 久芳勝也(S37卒)