人生いろいろ
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変わる動物相 檜垣 正浩 修猷館高校定時制講師、教諭を経て、昭和38年から昭和62年まで修猷館高校教諭。生物、地学などを担当。 |
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福江 桂子 |
修猷生のころ、カチガラス(カササギ)は佐賀平野だけに巣を造っていた。現在の太宰府では、カササギはよく見かける鳥で、電柱に巣をかけ、ハシボソガラスを攻撃している。 昭和38年、米領の沖縄で、内地では珍しい動植物との出会いがあった。石垣島の山地でみかける白い蝶は、内地では珍しいフィリピンシロチョウやイシガケチョウであった。現在、イシガケチョウは、我が家の近くでは、宝満山南山麓でよく見かける普通の昆虫になった。 高校生の頃背振山麓で、ヒガンバナに集まるオオウラギンヒョウモンが採れた。この虫は現在、日本列島全域から姿を消しつつある。 太宰府天満宮の池には、沢山のイシガメがいた。現在、ここのカメのほとんどはアカミミガメで、日本古来のイシガメやクサガメは少ない。気になるので、横浜は三溪園のカメを見たところ、全てがアカミミガメで、イシガメは全くいなかった。カメが専門の友人に聞いたところ、アカミミガメがブラッキストン線(津軽海峡)を越えるかどうかが話題になっているという。 これらの生物相変遷の原因は地球温暖化もあると思うが、それ以上に我々日本人の日常生活の変化であろう。景気刺激、国際交流も結構であるが、「取り返しのつかない事にならなければ良いが」と思う。 |
はじめに、このような機会を頂いて、修猷時代のなつかしい思い出を振り返る時間が持てたことに大変感謝しています。ありがとうございました。この紙面をお借りして、少しこれまでの人生と現在を記したいと思います。 私は、修猷卒業後、主人の海外勤務の関係で二度の海外在住を経験することができました。一度目は、当時(昭和40年代後半)の日本では「怖い国!」との印象があったブラジル(サンパウロ)に3年間、二度目は、東西冷戦の終焉(昭和〜平成)を迎えつつあった西ドイツ(デュッセルドルフ)に2年間でした。サンパウロは、日本での印象とは全く異なり、高層ビルが林立する大都会で、かつ衣食住の生活環境が優れた「豊かな街」。デュッセルドルフは、当時人口の1%が日本人と言われたくらい、多くの日本人を見かける街で、幸運にも東西ドイツ統一の瞬間を目の当たりにし、東ドイツという大国が倒れ、強国同士の合併という大きな渦の中に身を置くこととなりました。 二度の在住で思ったことは、日本に居て想像していることと、実際行ってみて、その国の人達や文化に触れ、直接感じ取ったことは全く異なり、やっぱり何でもやってみるしかないな!ということです。 話は少し変わりますが、この二度の海外駐在を挟む形で、銀行、証券会社、保険会社という金融機関にずっと勤務することになりました。そして今でも某保険会社に勤務し、忙しくもやりがいを感じながらお客様と接しています。金融機関は固く、冷たい印象を持つ方々が多いのでは?と思いますが、海外在住で感じたとおり、先入観に囚われることなく、実際仕事をしてみると人と人のふれあいが全てで、本当に人間臭い業界なんだということがわかります。これからも、足を棒にしながらも(笑)、お客様と誠心誠意対応していきたいと思っています。 |
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![]() 横浜 三溪園 |
若いひろば
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北京オリンピック結果 石橋 顕(平成4年卒) | 研究者を目指して 二宮 太平(平成12年卒) | |
![]() 右から二番目が石橋氏 |
例えばリンゴが木から落ちてきたとします。多くの人が簡単に状況を理解すると思いますが、実に大脳の半分以上がこの情報の処理に関わっています。細かくみると、リンゴの「赤い」、「丸い」といった特徴はまず後頭葉で抽出され、側頭葉に至る経路で「リンゴ」という知覚に結びつきます。また、落ちていることに関する「上の方にある」、「下向きに動いている」といった情報は、後頭葉から頭頂葉に至る経路で処理されます。この様に視覚情報は、「何か」や「どこか」といった要素毎に異なる経路で処理され、それらが統合されて最終的に「リンゴが木から落ちてきた」という認知に到達します。 普段の何気ない、見る、話す、歩くといった様々な行動も、突き詰めていくと驚くほど高度な機能と多くの段階を経て達成されています。このようなことを知ったとき、また解明したときの興奮は、研究に身を置いているからこそだと思います。僕が今後実際に研究者としてやっていけるのか、また何をどの程度解き明かしていけるのかは全くわかりません。辛い部分も勿論ありますが、楽しく研究生活を送っていければいいと思っています。 |
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北京五輪競技セーリング49er級 石橋顕・牧野幸雄組 12位 メダルレースに惜しくも届かずも、日本歴代最高位! さっそく直撃インタビュー Q 北京オリンピックを迎えた時はどんな気持ちでしたか? A 最高の舞台にやっと立てる事に感謝し、自分がどこまで戦えるかがすごく楽しみでした。 Q 1日目9位、2日目11位、3日目12位。レースを振り返るといかがでしたか? A 初日から良い手応えがありましたが、ちょっとしたミスで順位を落としたりと、シビアなレースでした。 Q メダルレース進出をかけた大一番の6日目のレースを振り返るといかがでしたか? A 無心で臨みました。とにかく自分達の力を十分に発揮できればと思いながらセーリングしました。最終日は途中トップに立つ場面が数回あり、最後までいいレースができたと思います。このオリンピックが今までで一番世界と対等に戦えたレースだったと思います。 Q 北京オリンピックまでに苦しかったこと、逆にうれしかったことは? A 当初資金集めには苦労しましたが、最終的にはしっかりとした後援会が立ち上がり不安なく活動できました。練習やトレーニングなどできついと思う事は特になく、敢えて言うなら、結果が出ない事が一番苦しく辛かったと思います。オリンピック代表が決まった時は本当にうれしかったです。あと4月イタリアにて国際レースで初めて優勝したときも最高でした。 Q 最後に、今後の抱負と読者の皆さんにメッセージをお願いします。 A これまで本当に多くの方々の支援を頂いてきました。特に修猷同窓生の皆様には多大なるご支援を頂き大変感謝しております。夢だけを追って必死に歩んできましたが、応援してくれる皆さんから逆に勇気や希望をもらっていた気がします。一人では何も出来ない事、しかし人の思いが集まればどんな事でも可能だという事を学ばせてもらいました。 今後はヨットの第一線からは引退し、ヨットに費やしてきた情熱を仕事に傾けたいと思います。オリンピックは私の人生の中の通過点にしか過ぎず、これをステップに更なる飛躍を目指してこれからも精進していきたいと思います。皆様、本当にありがとうございました。 |
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![]() 北京オリンピックの一コマ |
![]() 研究の場である東京都神経科学総合研修所と富士山 |